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2006/6/5

エデンの園  旧約聖書
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エデンの園がどこにあったのか検証してみたいと思います。

            旧約聖書(創世記第2章8−15節)

主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。  主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。  エデンから一つの川が流れ出ていた。 園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。

第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。
    その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。
第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。
第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、
第四の川はユーフラテスであった。

主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。

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先ず、第一の川であるピションは中央アラビア北部、第二の川であるギホンはイラン南部にある川と現在の調査で分かってきています。 アシュル(アッシリア)の東を流れる第三の川はいうまでもなくチグリス川であり、第四の川はユーフラテス川のことです。

一つの川が四つに枝分かれするという事は、チグリス川とユーフラテス川の下流のデルタ地帯であると考えられます。 ペルシャ湾に近い、この両大河に挟まれたあたりだと推測されますが、ここはエジプト文明と並んで、人類最古の高度な文明である、シュメール文明があったところです。 

地図をみるとウルという都市がありますが、これは紀元前約2500年前に、シュメールのウル第一王朝があったところで、ユダヤ人の祖アブラハムの生まれ故郷でもあります。 このアブラハムが率いる部族が、ヤハウェ神からのお告げにより、肥沃な三日月地帯を東から西へと大移動し、約束の地カナンに入ったのは、紀元前2000年から紀元前1500年頃のことで、彼らは河(ユーフラテス)の向こうからやってきたという意味を持ち、外来の遊牧民を指す「ヘブライ人」と呼ばれました。

メソポタミアとは、「二つの川の間」という意味で、もちろんチグリス川とユーフラテス川の事です。 メソポタミア文明とは、ペルシャ湾に近い下流に起こったシュメール文明、またその北側にあるバビロニア文明、さらに北側の両川に挟まれた地域とその東にあるアッシリアを加えたアッシリア文明の、これらのメソポタミアに生まれた、全ての文明の総称です。

旧約聖書は、シュメール文明の影響を大きく受けており、特に創世記における記述は、楔形文字で粘土板に書かれたギルガメシュ叙事詩に酷似しています。 また、天地創造での七日間というのもシュメールの七曜の影響であり、特にノアの洪水伝説はそっくりな話がシュメールにあります。 

すなわち、旧約聖書のエデンの園のモデルとなった場所は、このチグリス・ユーフラテス川下流にある美しい緑の風景のあった、メソポタミア文明発祥の地であると考えられています。

エデンの園のモデルとなった都市は、紀元前3000年頃に大規模な宮殿のあったシュメール最古の都市エリドゥとする説と、ラガシュとウンマという二つの都市国家が、紀元前2600〜紀元前2500年頃に「グ・エディン」という土地をめぐって戦争を繰り返したこのグ・エディンであるとする説が現在有力です。 いずれにしてもシュメール人が住んでいたところです。

今回の地図に、エリドゥはありますが、グ・エディンはありません。 以前、私が本で見た限りでは、エディンはウルの東側に位置し、チグリス川とユーフラテス川の間にある都市であったと記憶しています。

どうも、アブラハム率いるユダヤ人(ヘブライ人)達は、この豊かな楽園であるエデンに住みたかったけれども、勢力争いか何がしかの理由で、この豊かな地域を去らねばならず、その理由付けを旧約聖書のエデンの園追放の物語にし、未練を断ち切ろうとしたとも言われています。

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