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2020/8/18

ロスチャイルド財閥の始まり 放たれた5本の矢(子供達)  財閥(日本・世界)



ロスチャイルド家の先祖は、16世紀から代々、ドイツの北西部ヘッセン・カッセル州にある自由都市フランクフルト市内のゲットーに住む零細な商人でした。

フランクフルト・ゲットーには、後に国際金融資本家としてロスチャイルド家とともに覇権を握る事になるシフ家、バルーク家、カーン家、そしてウォーバーグ家も一緒に住んでいました。

ロスチャイルド家は、元々は屋号(通商)として「バウアー:Bauer」をの乗っていました。

しかし、代々赤い楯(ドイツ語でロート・シルト:Roth Schield)の表札がついた店舗兼住居で暮らしていた事から、「ロート・シルト」という屋号(通称)を使うようになりました。「ロートシルト」の英語読みが「ロスチャイルド:Rothchild」です。

フランクフルトのユダヤ人が正式な苗字が許されたのは、ナポレオン占領下の1807年の事です。



ロスチャイルド財閥の祖マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、1744年にユダヤ人商人モーゼス・アムシェル・バウアーの三人兄弟の長男として、フランクフルトのユダヤ人ゲットーで生まれました。

当時、フランクフルト・ユダヤ人には家名がありませんでしたが、自称や呼称の家名はありました。彼の家は「ハーン」もしくは「バウワー」と名乗っていました。

店の扉には、店の印である鷲のついた赤い楯の看板が下がっていました。ドイツ語で赤い楯はRoth Schield だったので、バウワーは苗字をロートシルドと変え、5人の息子を表す5本の金の矢を鷲の爪に握らせました。

ちなみに、ロートシルドは、英語読みでロスチャイルドRothchildです。



マイヤーが生まれた1744年は、欧州ではマリアテレジアの夫フランツ1世が神聖ローマ帝国皇帝に即位した年で、日本では、第11代将軍、徳川家斉(1773年-1837年)の時代と重なり、寛政の改革(1783年-1793年)があった頃のお話です。 

みなさんご存知とは思いますが、マリアテレジア

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マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(ロスチャイルド財閥の祖)
1764年ドイツ・ロスチャイルド商会創設


アムシェル・マイヤー・ロスチャイルド (長男)
父マイヤー・アムシェルが1812年に死去とともに、ドイツ・ロスチャイルド商会を引き継ぐ

サロモン・ロスチャイルド  (次男)
1820年オーストリア・ロスチャイルド商会創設

ネイサン・ロスチャイルド (三男)
1804年イギリス・ロスチャイルド商会創設

カール・ロスチャイルド  (四男)
1821年イタリア・ロスチャイルド商会創設

ジェームス・ロスチャイルド  (五男)
1817年フランス・ロスチャイルド商会創設



マイヤーの父は、モーゼス・アムシェル・バウアーと言い、赤い楯の表札を掲げて、質屋や両替商を営んでいました。

当時のドイツは、350の公国などから構成され、それぞれが通貨を持っていたので、通貨同士の両替が必要だったのです。

天然痘が猛威を振るった1755年頃、マイヤーは両親を亡くし、中部ドイツ・ハノーバーの領主の宮廷ユダヤ人銀行家となっていたオッペンハイム家に奉公に出て、6年後に、フランクフルトのゲットーに戻ってきました。


彼は古銭商を始め、1764年頃にフランクフルト・ロスチャイルド商会を設立しました。

1770年、ユダヤ人のグーテレと結婚したマイヤーは、店の二階で暮らし、一階で古銭や絵画や家具など雑多の商品を売買しました。

夫妻は20人の子供を産み、ゲットーでは良くある話ですが、10人がすぐになくなり、10人が育ち、そのうち5人が娘で5人が息子でした。



やがてマイヤーは、ほぼ同年齢のヘッセン領主ヴィルヘルム公(1743ー1821)を古銭商売の上客とすることに成功します。

ヴィルヘルム公はフリードリッヒ2世の息子で、後のヴィルヘルム9世です。 またイギリスのジョージ2世の孫にあたり、ジョージ3世は従兄弟、加えてデンマーク王の甥で、スウェーデン王とは義兄弟という関係で、ヨーロッパの名門でした。

ヴィルヘルム公は、ヘッセンの若者を傭兵として鍛え、イギリス政府に、アメリカ独立戦争(1775−1783)をはじめとする植民地戦争のために、毎年1万5000人から1万7000人ほどを貸し出す傭兵ビジネスを営んでいました。

ヘッセンの領主と住民は古くから契約が交わされていて、傭兵代金は兵士たちに支払われました。 いうまでもなく領主が莫大なマージンを懐に入れ、

加えてヴィルヘルム公は閨閥を活かし、オーストリア皇帝をはじめとして王や貴族たち、さらには軍人・官史・各種産業に貸し付けを行って莫大な富を築き、ヨーロッパで一番の金持ちになりました。


マイヤーはヴィルヘルム公に気に入られて宮廷ご用商に任ぜられ、公がイギリス政府から受け取る傭兵代金の小切手を割り引いてがっぽりと儲けるようになります。

マイヤーはヴィルヘルム公の父親フリードリッヒ2世にも食い込み、その威光を利用して政界に足場を築き、王一族の秘密もことごとく把握し、商売に利用してゆきました。

マイヤーは裕福になると、1785年に、ゲットーのユーデンガッセ148番地の「緑の楯(グリーン・シールド)」と呼ばれるそれまでより大きな5階建ての家に移りました。

この建物の内部はふたつの区分に分かれていて、一方にロスチャイルド家が住み、もう一つは扉に「船」の絵を掲げたシフ家が住んでいました。

「船」をドイツ語では「シフ」といいます。 当時からずっとシフ家はロスチャイルド家と密接不可分でした。


後の19世紀の半ばになってからの話ですが、シフ家の子孫ジェイコブは、目先の利く少年で、ビジネスの大志を抱いて、1865年、18歳のとき、南北戦争後のアメリカに移住します。

彼はロスチャイルドの代理人となり、ウォール街の世界的銀行家になりました。 信仰心厚いジェイコブの父は銀行家でしたが、祖父以前は代々ユダヤ教のラビ(宗教指導者兼学者)を努めました。



ヴィルヘルム公は1786年、父フリードリッヒ2世の死に伴い、ヴィルヘルム9世となり、ヘッセン=カッセル方伯を継承し、当時ヨーロッパ最大級と言われた資産を相続しました。

マイヤーのフランクフルト・ロスチャイルド商会は、1789年頃、ヘッセン=カッセル方伯の正式な金融機関に指名され、借款の仕事にも携わるようになります。

1801年頃からはヴィルヘルム9世の個人の資産運用も委託され、大きな投資事業にも参加し始めました。

マイヤーの提案により、傭兵代金は、イギリスで直接投資に回されることになりました。彼はこのイギリスで投資に回されたカネを横領し、ロンドンにいる3男のネイサンに運用させたとも言われています。

さらにマイヤーは、「情報」をビジネスに結びつける仕組みを考えました。 神聖ローマ帝国の「駅伝郵便長官」職を世襲し、ヨーロッパ全土の郵便事業を独占していたテュルン・タキシス家と、彼は緊密な関係を築き上げました。

同家はヴィルヘルム9世やロスチャイルド家の内偵として活動するようになり、時には郵便に託された重要文書を不法に開封し、内容をヴィ流ヘルム9世やマイヤーに伝えたり、彼らに有利になるように手紙を急送したり、遅配したりの操作を行いました。

このようにして、マイヤーのビジネスは1790年代にヨーロッパ中で急速に成長し、マーチャント・バンカー(国際的な銀行家)としての姿を現していきました。



マイヤーの事業に関する勘の鋭さで財を成し、また5人の傑出した息子たちにより、5人それぞれが一大金融業者にのし上がりました。

彼らはフランクフルトの外に乗り出し、ヨーロッパだけでなく文明世界の金融の中心地のほとんどで事業を展開しました。


19世紀前半、ロスチャイルド家の兄弟は、英国、フランス、プロシア、オーストリア、ベルギー、スペイン、ナポリ、ポルトガル、ブラジル、それにドイツのさまざまな国々や他の小国政府の依頼で重要な取引を行いました。

ヨーロッパ各国の王家ご用達の銀行家でもありました。 また、代理人を通じてアメリカやインド、キューバ、オーストラリアといった遠い市場でも多額の投資をしました。

セシル・ローズの財務を委ねられて、南アフリカのダイヤモンド鉱山の独占権を確保したのもロスチャイルドで、今でもデビアス社とロスチャイルドは深い関係にあります。




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