2020/9/27
「魔笛」モーツアルトとフリーメーソン 映画・音楽・アニメ

Die Zauberfloete(魔笛)
モーツアルト(1756年1月27日生誕-1791年12月5日没)が生涯の最後、1791年9月28日に完成させたオペラ。
W. A. Mozart: The Magic Flute (Levine, 1991) [Complete / Japanese sub.]日本語訳付き
https://www.youtube.com/watch?v=d0G_bFIL9f8
このオペラのハイライト『夜の女王のアリア』は、モーツァルトの歌劇『魔笛』(まてき/The Magic Flute K.620)第2幕に登場するアリア。
夜の女王が娘パミーナにナイフを渡して、宿敵ザラストロを討ち果すよう命じる場面です。
La flauta mágica. La reina de la noche. W.A. Mozart
https://www.youtube.com/watch?v=8WNJyOKvKkM
あらすじ・ストーリー
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山の中で、タミーノ王子が大蛇に襲われているところを助けてくれた三人の女性は、夜の女王に仕える侍女だった。
タミーノ王子は、夜の女王の娘パミーナ姫が、邪悪な魔法使いザラストロに捕らえられていることを知り、さっそく取り戻しに出掛ける。
三人の侍女は、タミーノ王子に魔法の笛を与え、彼のお供をする鳥刺しのパパゲーノには、魔法の鈴を与えて送り出す。
ザラストロの神殿に到着したタミーノ王子は、ザラストロが邪悪な魔法使いではなく、高so僧であることを知る。
彼は、パミーナ姫と結ばれるために、ザラストロの試練を受けることを決意する。
パミーナ姫は、愛するタミーノ王子が、ザラストロに課せられた試練のために口をきいてくれないことを嘆き自殺をはかるが、三人の童子に彼の変わらぬ愛を告げられ、共に火と水の試練に挑む。
一方、恋に憧れるパパゲーノは、魔法の鈴のおかげで難を逃れ、パパゲーナと言う可愛い恋人を得ることができた。
ザラストロへの復讐に燃える夜の女王は、三人の侍女を従え、ザラストロの宮殿に乗り込もうとするが、電鳴と共に地獄に落ち、世界は平和で満たされる。
オーストリアに忍び寄るフリーメーソンとモーツアルト
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日本では不利メーソンと聞くと何やら怪しげな秘密組織をイメージしてしまいますが、公然とどこにでもロッジはあり、東京タワーの下にも日本グランドロッジは看板を掲げています。
フリーメーソンの会員になるのは、その宗教を信じているかにはこだわらないと、フリーメーソンは主張していますが、発足当時においてカトリック教徒やユダヤ教徒が、フリーメーソンに参加したことはありませんでした。 フリーメーソンに参加したのは、理神論者か理神論的な思考に関心を寄せていた人々であります。
理神論とは、17世紀後半から18世紀前半にかけて、イギリスを中心に普及したもので、それまでキリスト教が容認していた超自然的な啓示、すなわち奇跡や予言を全く否定するもので、啓示性の代わりに人間の理性が根拠とされており、 「 理性の時代 」 といわれる18世紀にふさわしい、新しい宗教思想として登場しました。
すなわち、従来のヨーロッパは、キリスト教でガチガチに思想を固定化され、何をするにも神様が出てきて、神様がまるで人のように振る舞い、自分達の生活に介入してきていましたが、理神論では宇宙の創造者としての神は認めるものの、それ以後の宇宙は、神様の意思によるものではなく、人間が中心的につくっているというもので、
人間理性の存在をその説の前提とし、神を人格的存在とは認めず、啓示を否定する、新しい哲学・神学説なわけです。
この思想は、18世紀にイギリスで始まり、フランス・ドイツの啓蒙思想家に受け継がれました。
18世紀に、近代自然科学と知識を集大成した 「百科辞典」 が刊行されましたが、この百科辞典とフリーメーソンは深い関係があります。
18世紀の百科辞典といえば、1728年にイフレイム・チェインバースによって刊行された 「チェインバーズ百科辞典」 と1751年から1572年にかけてフランスで刊行された 「百科全書」 が有名でありますが、この2つの百科辞典はともに、フリーメーソンと密接な関係があります。
この2つの百科辞典を特徴づけているのは、ニュートンに象徴される近代科学・科学技術に関する情報を、いち早く積極的に集録している事にあります。
フリーメーソン-139 フリーメーソンとは何か-14 (理神論)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/733.html
フリーメーソン-140 フリーメーソンとは何か-15 (チェインバーズ百科辞典)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/734.html
フリーメーソン-141 フリーメーソンとは何か-16 (フランス百科全書)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/735.html
オーストリアにもフリーメーソンは啓蒙主義と共にやってきました。
マリア・テレジアの夫であるロレーヌ公爵は、既に1731年、オランダのハーグにある
「臨時ロッジ」 において、フリーメーソンに加入しています。
そのときマスターを勤めたのがデザギュリエで、オランダ大使として赴任中のチェスターフィーリド卿も同席しています。
後に、ロレーヌ公爵は、ロバート・ウォルポール卿のノーフォークの館で開かれたロッジで、マスターの位階を受けています
1730年代は、ヨーロッパ全土にフリーメーソンのロッジが創設されていった時期であり、この動きを無視できなかったローマ教会は、1783年に教皇クレメンス12世の名で、フリーメーソン活動を禁止しています。
その理由としては、フリーメーソンの「秘密性」がり、当時カトリックでは懺悔のときに、神の前では全てを打ち明け、秘密は一切持たない、という重要な教義と矛盾するからでありました。
カトリック教会から言わせると、 「悪事を企てていないのなら、どうしてフリーメーソンの会を秘密にする必要があるのだ?」 というものでした。
また、フリーメーソンは、カトリック、プロテスタント、英国教会、ユダヤ教、などあらゆる宗教に寛容であったため、カトリックに対抗する一大勢力となり、もはやローマ教会がコントロールしきれない事を恐れていた一面もあります。
それまで、カトリックのローマ教会は、神の名の下で、全ての権力を掌握してきたので、その利権が崩れるのを恐れていたわけです。
それと、何よりもフリーメーソンの儀式やシンボルマークが何やら怪しげ過ぎて、不気味であり、悪魔崇拝の黒魔術をしているようにも思われ、かつ秘密主義ときているために、怪しげな陰謀をたくらんでいるに違いないと思ってしまったのも、無理ないことだと思います。
フリーメーソンに加入したり、その思想を広めたりすれば、カトリックから破門するという厳しいものでありましたが、この禁止令の実施に当たっては国家元首の承認が必要でありました。
しかしながら、フリーメーソンの拡がったヨーロッパの国々では、国王ははじめ、政財界の大物たちの多くが加入しているので、現実は禁止令を出しても、バチカンへの外交辞令だけで、実際の警察による取り締まりはほとんど行われることはありませんでした。
バチカンのローマ教皇も、各国が禁止令を無視しているのが分かっているので、だんだんヒステリックになってきて、次の教皇ベネディクト14世は、「教会法」の中にフリーメーソン活動を禁止する条項を付け加えました。
これによって、 「反フリーメーソン」 は、カトリックの正式な教義になってしまったのです。
この条項は今でも残っており、第2335条には次のようにあります。
「教会、または合法的な国家機関に対抗して活動するメーソン派、または他の結社の名を使う者は、破門の罰に処せられる」
これを受けて、カトリックであるスペインでは悪名高き異端審問所が動き出し、この頃の民間にフリーメーソンは 「悪魔のシナゴーク」 である、と主張するパンフや本が出回りはじめました。
内容は、魔女裁判やユダヤ人迫害と大同小異の代物で、 「メーソン会員は、この世の快楽と引き換えに悪魔に魂を売る儀式を行ってる」 というようなもので、今日にも残るフリーメーソンに対する偏見は、この頃のデマが大きな影響を与えていると言えます。
また、バチカンが禁止令を出すにも関わらず、勢いを増すフリーメーソンに対して、ローマ教皇はさらにヒステリックになり、ピオ7世は、またもや破門令を1814年に出しました。
文面も威厳に満ちた厳しいものから、単なる口汚い罵詈罵倒に変わって行きます。
例えば、「地獄の集会の殺人的発展と陰謀」など。 しかしながら、これまたフリーメーソンの勢いは増すばかりであったということは、言うまでもありません。

クレメンス12世(Clemens XII、1652年4月7日 - 1740年2月6日)は、18世紀のローマ教皇(在位:1730年7月12日 - 1740年2月6日)
オーストリアにおいて、フリーメーソンが全面的に禁止されるのは、マリア・テレジアの夫であった神聖ローマ皇帝のフランツ1世(Franz I. Stephan von Lothringen)が在位していたときでありました。

フランツ1世(Franz I. Stephan von Lothringen)
神聖ローマ皇帝(在位1745-1765)、ロレーヌ公爵(在位1729-1737)、
トスカーナ大公(在位1737-1765)、マリア・テレジアの夫
1780年にマリア・テレジアが亡くなり、その息子で神聖ローマ皇帝のヨーゼフ2世が、その後を継ぎましたが、啓蒙思想に傾倒していた彼は、フリーメーソンにも寛容な態度でのぞみ、その保護の下でオーストリアのフリーメーソンは全盛期を迎えました。

マリアテレジア 11歳の時

ヨーゼフ2世(Joseph II Benedikt August Johann Anton Michael Adam)
神聖ローマ皇帝(在位1765-1790)、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王
フランツ1世とマリア・テレジアの息子、マリーアントワネットの兄
そうして、知識人・芸術家・貴族・富裕商人などが、続々とロッジに集まり、このような時代背景のなかで、天才音楽家のモーツァルトも1784年12月にフリーメイソンに加入し、
翌1785年には名作 「フリーメイソン葬送音楽」を作曲するなどフリーメイソンの運動に積極的に参加し、フリーメイソンの関連作品を10点ほど残しており、
1) 歌曲「ヨハネ分団の儀式のための讃歌“おお、聖なる絆よ”K.125h」
2) カンタータ「あなたに、宇宙の魂よK.468a」(未完) 1785-91年?
3) 歌曲「会員の旅K.468」 1785年
4) カンタータ「フリーメイスンの喜びK.471」 1785年
5) 管弦楽曲「フリーメイスン葬送音楽K.479a」1785年
6) 合唱付き歌曲「あなた方、我らの新しい指導者よK.484」 1785年
7) 合唱付き歌曲「親しい友よ、今日こそK.483」 1785-86年初
8) 独語小カンタータ「無限の創造者を崇敬するあなた方がK.619」 1791年
9) 小カンタータ「我らの喜びを高らかに告げよK.623」 1791年
10) 歌曲「我らの手に手をとってK.623a」 1791年
これとは別に、最後の年に作曲されたオペラ「魔笛K.620」 は、フリーメイソン運動が生み出した最大傑作と言われています。
フリーメーソン-13 魔笛
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/603.html
フリーメーソンとは何か まとめ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/770.html
