renaissancejapn2020@gmail.com

2021/6/23

1930〜940年代、ゴールドマン・サックスの低迷期  財閥(日本・世界)








クリックすると元のサイズで表示します
ゴールドマンサックスとは
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2898.html

本Blogで、ゴールドマン・サックスのシリーズの情報の出所は、「Goldman Sachs」の著者である女性のリサ・エンドリック(Lisa Endlich)氏を中心に、収集したものです。
Lisa Endlich プロフィール
-------------------------
MITでマネイジメントと都市計画の修士号を取得後、ゴールドマン・サックスに入社、外国為替部門のトレーダーとなり、VP(ヴァイスプレジデント)の肩書を得る。 退社後は夫と三人の子供とロサンゼルスに在住。

日本に関する記事は、主に国際ジャーナリスト堤未果氏の著作物を中心に取集したものです。 インターネトでデービッド・アトキンスを敵視する三橋貴明氏と藤井聡氏ですが、彼ら自身も言っていますが、彼女(堤未果)が先生と述べています。彼女の著作物・記事・情報がベースになっているケースが多く見られます。
堤未果 プロフィール
-------------------
東京生まれ、NY度立大学大学院国際関係論学科修士号。 国連、野村證券などを経て、米国の政治、経済、医療、教育、農政、公共政策、エネルギーなどをテーマに、現場取材と公文書による調査報道で活躍










クリックすると元のサイズで表示します
Marcus Goldman (December 9, 1821 – July 20, 1904)
ゴールドマン・サックスの創始者


クリックすると元のサイズで表示します
マーカス・ゴールドマンが1869年に最初のオフィスを置いたパイン・ストリートのビル
このビルの地下一階から世界最強の投資銀行の歴史は始まりました。
マーカス・ゴールドマン商店が入っていたビル、30 Pine street , New Yoork














1930〜940年代、ゴールドマン・サックスの低迷期


サム・サックスの逝去(せいきょ) 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2944.html

からの続き


1930年代、そして1940年代の後半、ゴールドマン・サックスにはほとんど仕事がなく、利益を上げる事が出来ませんでした。

会社の信用は失墜し、アメリカ経済は不況にあえいでいました。 のちに共同シニア・パートナーとなったジョン・ホワイトヘッドは、この時期の終わり頃に入社いていますが、

1930年から1945年の間の利益は累計ゼロだっただろうと推定しています。 1930年代、ワインバーグは獅子奮迅の活躍ぶりをみせ、利益の1/3を一人で稼ぎ出していました。

しかし、60年以上経った後、彼の息子ジョン・ワインバーグが指摘したように、ゼロの1/3は所詮ゼロでしかありませんでした。

ゴールドマン・サックスが将来を楽観的に見ていたことの良い証拠に、同社は果敢にも1932年にCP業務の最大のライバル会社を買収して、勢力を中西部に拡大しています。

後にはボストンの競争相手も買収し、その会社が顧客に抱えていた南部の繊維会社を取り込んでいます。

当時、これらの動きは無鉄砲と考えられましたが、おかげで同社はアメリカのCP業務で確固たる地位を築くことになります。

マーカス・ゴールドマン(創業者)は、CP業務を決してぞんざいに扱ってはならないと息子と義理の息子に諭しましたが、その心配はまったく無用でした。


1940年代に入ると、ウォール街は一変して静かになり、何も仕事のない時代が長く続きました。

夏の間は、とりわけ静かで、若い社員たちは夏の午後、ブリッジやポーカーに興じて時を過ごしました。

時間に追われることなく、ゴールドマン・サックスのパートナーたちは、景気が回復した時に備えて、将来の基礎固めとなる大胆な経営を行いました。

sの一つに、トレーディングの世界に参入するためにガス・レビーを雇い入れた事が挙げられます。

彼は時をおかずして裁定部門を作り出し、投資銀行部門がぱっとしない間の稼ぎ頭となりました。


裁定の二字ネスは、ヘンリー・ゴールドマンが40年前に着手した後、放置されていた分野であります。

ポジションを張って鉄道債券、dン江力債券を売買するところから、ゴールドマン・サックスの中の高収益部門、リスク裁定部門は生まれました。

大恐慌時代に鉄道会社の多くは会社更生法の適用を申請しました。 しかし、第二次大戦中、鉄道はフル回転で操業し、法的には倒産していたものの、手元には現金をたっぷり持っていました。

したがって、k金利支払いが滞った鉄道債は割安となっていました。 これら市場で過小評価されている債権の価値を正しく評価することにかけて、レビーは天才的でした。

後に、彼はこの才覚を電力会社や企業合併時にも応用しています。 レビーは江ホール街の偉大な裁定取引者として知られるようになり、

後にアシスタントだったボブ・ルービンと共に、ゴールドマン・サックスを世界にっ冠たる裁定取引業者の地位に引き上げました。


ゴールドマン・サックスは、また、この低迷期に地方債部門と個人営業部門(大きな資産を持つ富豪を対象に株や債券を売買する部門)を新設しています。

一般投資家は不正の状態か、いたとしても非常に神経質でありましたが、将来引受業務に再び参入するとなれば、販売先を確保することが不可欠となります。

これはそのとkに備えた動きでありました。 当時の投資銀行業務は単純なもので、買い専門の部署と売り専門の部署の二つしかありませんでした。

買いの部門が部署が発行体から証券を買い取り、売りの部署がそれを機関投資家や個人投資家に売ります。

投資銀行のコツは、証券を買い取る前に買い手を見つけておくことでした。 レビーは
「半分買い予約の入ったものは良い買いだ」 というしゃれt言い方をしていました。

それが当時の仕事の進め方であり、引受の損失から会社を守る方法でした。 1940年代、慎重なワインバーグは大きな損失をかぶらないように細心の注意で経営しましたが、同時に利益もあまり上がらずじまいでした。



トップの座にある間、ワインバーグは実業界での広い人脈を生かして会社のために実によく働きました。

彼の個人的な友人には、GE(ゼネラル・エレクトリック)、オーエンス・コーニング・ファイバーグラス、ナショナル・デアリー・プロダクツ、フォード、P&G(プロクター・アンド・ギャンブル)など大企業の会長が多く挙げられます。

永い間m、個人的な人間関係からビジネスが生まれることはありませんでしたが、ワインバーグは粘り強く、

アメリカのトップ企業をずらりと顧客に抱えるようにならなければ会長の将来はないことを、彼は熟知していました。

彼が会社に遺産として残したものは顧客でした。 ゴールドマンの顧客リストの顔ぶれに匹敵する顧客を抱えるのはモルガン・スタンレーくらいのものでした。

幅広い顧客層が、その後同社の驚くべき高収益を生み出す礎となりました。















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2904.html

モルガン財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2894.html

デュポン財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2919.html

ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2917.html

日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2918.html


財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2815.html


4


※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ