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2021/7/20

住友財閥の歴史  財閥(日本・世界)





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住友家の始祖は、桓武天皇の曾孫である望王(たかもちおう)の22代目にあたる備中守(びっちゅうのかみ)忠重。

住友という社名は、忠重が父の姓名(須見友定)を合わせて「住友」を名乗ったのが始まりです。


忠重の子孫・住友若狭守政俊(わかさのかみまさとし)は、織田家の武将・柴田勝家に仕え、越前丸岡(現 福井県丸岡町)に城を構えましたが、賤ケ岳の合戦に敗れて殉死しました。

室町時代に足利将軍家に仕えた住友忠重の子孫である、その忠重から数えて8世に当たる住友政友(まさとも:1585-1652)は、京都に落ち延びて町人となり、寛永年間(1624〜1645)に京都で書籍と薬(反魂丹:はんごたん)を商う「富士屋」を開いたのが、商家としての「住友家」の始まりです。


また、天正18(1590)年、京都に銅吹き(銅精錬)と銅細工業(屋号・泉屋)を営んでいた政友の姉婿・蘇我理右エ門(そがりうえもん)が、南蛮人・ハックスレーから教えられた粗銅から銀を分離する精錬技術「南蛮吹き」で巨利を得ました。

屋号のいわれは、ハックスレ―に「白水(はくすい)」と当て字した後、上下合わせて「泉」としました。住友グループの商標「井桁(いげた)」は、泉のように水がこんこんと湧き出る井戸を連想して制定されました。

その長男であり、政友の姉婿として住友家に入った住友友以(すみともとももち)が大阪に進出して、理右エ門と協力して「南蛮吹きの宗家」としての基礎を築いたのが始まりです。



友以は、同貿易で得た儲けを元に糸、反物、砂糖、薬種などを扱う貿易も行うようになります。 そして泉屋は「大阪に比肩する者なし」といわれるほどに繁盛してゆきました。

寛文2(1662)年に友以が没した後、跡を継いだのは五男の友信でした。 彼は住友吉左衛門(すみともきちざえもん)と名乗り、秋田の阿仁銅山、備中の吉岡銅山などの経営に乗り出し、幕府御用達の銅山師となって名実ともに日本一の銅鉱業者となりました。

ちなみに、彼以来、住友家の当主は代々、住友吉左衛門を名乗ることとなりました。 現在の当主は第17代です。 実は私、一緒に食事させて頂いたことがあります。




友以の末子の友貞は両替商を大阪と江戸で始めました。 ここに住友家は鉱業と金融業の2つを柱とする財閥としての地位を確立しました。 しかし鉱山経営はかなりの手間と経費が掛かり、経営はそれほど楽ではなく、経営は悪化の一途をたどりました。

そんな住友に転機が訪れます。 友以の孫にあたる友芳の代に、伊予の別子銅山の開堀に着手しました。 元禄4(1691)年のことでした。

別子銅山は世界最大級の産銅量を誇る鉱山に成長していき、重要な輸出品として日本を支えることとなるとともに、その後の住友の重要な事業の柱となっていきました。

今日の住友財閥の出発点は、この住友友芳が開発した別子銅山によって築き上げられたものであると言っても過言ではありません。

事実、住友家の歴史の中では、この友芳の時代を発展の契機ととらえています。



つまりその歴史は400年以上遡ります。 世界最強の財閥とされるロスチャイルド家の家祖とされるマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが生きたのが1744〜1812ですから、それよりも古く、世界一古い財閥の一つであることは間違いありません。



その後、住友は財閥として比較的安定していましたが、三井がそうであったように。明治維新で大きな危機を迎えることとなります。

徳川幕府が崩壊して明治新政府に替わると、諸大名に用立てていた資金の回収が不能となりました。 また、保有していた各藩の藩札も暴落。 そのため住友家の屋台骨は大きく揺らぐことになりました。

住友グループのホームページにも、 「累代の家宝・什器まで抵当に入れ、銭佐(銭屋佐兵衛)両替店から千両程の融通を受け、ようやく急場をしのぐと言う窮状だった」とありますが、まさに危機的状況でした。



さらに慶応4(1868)年2月には、幕府領だった別子銅山を土佐藩が接収して新政府の管理下に置こうとしたし、また薩摩藩は大阪本店の銅蔵を封印し、備蓄した膨大な銅も差し押さえられました。

そのため別子銅山の売却案まで浮上しました。 事業の柱であるっ別子銅山を失えば、もはた住友は成立ちません。 その事態に正面から立ち向かったのが、別子銅山の支配人を務めていた広瀬宰平でした。

広瀬は、文政11年5月5日(1828年6月16日)に近江国野洲郡八夫村(現・滋賀県野洲市)の旧家・北脇家の次男として生まれました。9歳の時に別子銅山の支配人をしていた叔父の北脇治右衛門に連れられて別紙に移り住み、11歳の時に別子銅山にに奉公にあがりました。

よほど才覚があったのでしょう。 広瀬は第10代当主友視の推薦で、元住友江戸店の支配方であった広瀬義右衛門の養子となりました。 そして慶応元(1865)年には別子銅山の近代化を訴え、総支配人に抜擢されていました。




その広瀬が、土佐藩士の川田元右衛門(後の川田小一郎日本銀行総裁)に面会し、「別子はなるほど幕僚ではあるが、銅山は住友家の自力経営であるばかりではなく、別紙の事業を差し押さえる事は国家の大計に反する」と強く主張して、別子銅山の事業継続の許可を得る事に成功し、大阪本店の銅蔵の封印を解かせ、住友の銅を再び流通させました。

その結果、広瀬は住友の大阪本店における経営の実権を握り、明治2(1869)年1月には「諸事更新」の方針を打ち出しました。 早い話が企業改革です。たとえば明治4(1871)年には、製銅販売の神戸出店を開設して、外国商館と直取引することを目指しました。

さらに銅吹き所を大阪から別子山麓の立川山村に移し、作業などの合理化を図ったほか、輸送のため小蒸気船を導入し、採鉱にダイナマイト工法を採用しました。 また銅精錬にコークスを導入、さらに蒸気機関、削岩機、砕鉱機、巻楊機などの最新設備を次々と取り入れていきました。

その結果、明治初年に420トンだった産銅高が、15年後には1800トンと4倍余に達し、閉山までの283年間の出鉱量は推定3000万トン。 そこから生み出された銅は65万トンに上ったと言います。 明治10(1877)年2月、住友家第12代吉左エ門友親が広瀬を総代理人に指名しました。「 広瀬は商法上一切の事務を総括し、すべての雇人を統御する権限を持つ」としたのです。

丁稚上がりの一社員にそれだけの権限を持たせるのはまさに異例中の異例でした。 そこで広瀬は住友の家改革にも着手しました。

明治15(1882)年には19款196条からなる「住友家法」が制定されました。 住友家法の制定に伴い、広瀬の役職である「総代理人」は「総理人」と改称されましたが、広瀬の経営はあまりにも独裁的でした。

また広瀬が主導した事業があまりうまくいかなかったことや、内部から銀行設立の強い要望が上がったにもかかわらず、広瀬がかたくなに拒んだことなどから、住友内部から広瀬に対する批判の声が起こるようになり、明治27(1894)年11月、ついにその地位を辞任しました。 その後、広瀬は86歳まで生き、大正3(1914)年1月30日に亡くなりました。



その後、総理人は2代目の伊庭貞剛、3代目の鈴木馬佐也、4代目の中田錦吉、5代目の湯川寛吉、6代目の小倉正恒、7代目の吉田駿之介と移っていきました。ちなみに「総理人」という役職名は明治29(1896)年に「総理事」と改称されました。 しかし、初代の広瀬と2代目以降の権限は明らかに違っていました。

広瀬が住友家の家長から「総代理人」という名で指名されたことからも分かるように、広瀬の代理権は全くげ呈されていませんでした。 それに対して、2代目以降の総理事は重役会を構成する理事から選任され、理事たちの意向を無視できないことになりました。

それは住友という組織の経営が住友家の代表から、会社としての代表に移ったことを意味していたと言っても良いでしょう。 歴代総理事の中から一人挙げるとすると伊庭貞剛です。 別子銅山の塩害対策に活躍し、「CSR(企業の社会的責任)」にいち早く取り組みました。

伊庭は、弘化4(1847)年に伯太藩代官であった伊庭正人の長男として、近江国蒲生郡西宿村(現・滋賀県近江八幡市)で誕生しました。 その伊庭は、明治11(1878)年に勤務していた大阪上等裁判所を退職したところで、叔父の広瀬宰平に勧められて、明治12(1879)年に住友に入社、3ケ月後には本店支配人となりました。



彼は大阪紡績(後の東洋紡)や大阪商船の設立に参加したほか、12代当主の住友友親、13代当主の住友友忠が相次いで急死し、友忠の母・澄久が14代を継いだときには住友家の家督相続問題に奮闘し、徳大寺公純の第六子・隆麿(西園寺公望の弟)を友忠の妹・満寿の婿に迎え、住友公純として15代を継がせています。

また、明治20年代半ばから深刻な問題となっていた別子銅山の煙害問題にあたっては、自ら新居浜に赴き、精錬所の四阪島への移転を実現したほか、銅山の開発によって荒廃していた西赤石山系の山々での植林を推し進めるなど、環境問題の解決にも心血を注ぎました。その際、山林管理のためにつくったのが、現在の住友林業の前身であります。

その後、住友の重役会議を合議制とするなど経営の近代化を推進、広瀬が反対していた住友銀行の創設を決定、明治33(1904)年、58歳で総理事職を辞しましたが、「事業の進歩発展に最も害するものは、青年の過失ではなくして、老人の跋扈である」と語ったことでも知られます。

以後、住友は総理事を中心とした合議制で成長を続け、終戦時に住友本社が投資していた会社は120社にもおよび、これらの会社の公称資本金総額は100億円に上る規模でした。





第二次大戦後のGHQによる財閥解体の危機

住友財閥は鉱山からスタートし、重化学工業中心に発展してきた財閥だけに、太平洋戦争終結時に保有していた120社に及ぶ会社の公称資本金総額は100億円に上る規模で、そのうち住友本社が占める

「日本における重化学工業部門の払い込み資本比率」は87%にも及んでいたとされます。
しかし、戦後のGHQによる財閥解体で最大の危機を迎えました。 住友の直系企業のほとんどが国から軍需工場の指定を受けていたため、GFQから厳しい目を向けられました。

この緊急事態に対して、住友は秘密裏に直系12社(化学・金属・鉱山・銀行・信託・生命・電工・機械・電気・倉庫・石炭・日本建設産業)の社長によって構成する「白水会」を設立しました。 それは三井・三菱・他の財閥にさきがける動きでした。

それにより、集団指導体制を確立し、連帯意識の統一を図ろうとしたものです。 住友グループが「結束の住友」と呼ばれる所以です。20(1945年末)にはその存在も知られるようになり、会合も月1回となりました。



その白水会の存在が正式に発表されたのは昭和26(1951)年4月のことでした。 吉田駿之助(第7代住友合資会社総理事)や土井正治(元住友化学会長)、田路哉(元住友商事会長)らの提唱によって始められたといわれます。

ちなみに白水会の名は、当時大阪銀行(住友銀行)の鈴来剛社長の提案で、住友家が「泉屋」と号して銅商いを始めたことから、「泉」を上下に分けて「白水」としました。





日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
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政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
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ゴールドマン・サックスと住友財閥
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