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2007/6/24

額田王  女性を考える

日本の代表的な女流万葉歌人に、額田王(ぬかたのおおきみ)がいます。 


現代に於いても、絶大な人気を誇る額田王ですが、宝塚で 「あかねさす紫の花」 というタイトルで公演されており、以前は、雪組の花總まりが額田王の役を演じていました。


才色兼備で有名な額田王は、大海人皇子(=後の天武天皇)の妻で、2人の間には、
十市皇女(とおちのひめみこ)がいました。



しかしながら、なんと大海人皇子の兄である天智天皇が、額田王を横取りしてしまいます。  天皇という権力の前には、どうしようもなかったのでしょう。
 


額田王が、大海人皇子と不仲で別れたわけでない理由に、次の有名な歌があります。


これは、天智天皇が即位し、大津宮に遷都した668年の5月に、一大行事として、全て
の貴族、豪族、女官に命令が下り、近江の蒲生野で、遊猟が行われた時の事です。

既に、天智天皇の妻となってしまった額田王と、大海人皇子が偶然出会い、額田王が詠んだ歌が、



あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る

訳) 「紫野」に行ったら、標野に行ったり、そのときどきに、あなたが私に袖を振ります。 野守(猟場の番人、もしくは天智天皇)が見たら、どうするのですか」



そして、大海人皇子は返します。



紫の 匂へる妹を 憎あらば 人妻ゆへに われ恋ひめやも

訳) 「紫草のように匂うがごとく美しいあなたを、憎く思えるのであれば、もう既に人妻であるあなたを、こんなに恋しくは思わないだろうに」



昔から日本の風習として、着物の袖を縦に振るのは了承、横に振るのは拒否を示します。   今日でも、我々は 「袖にする」 「振る」 という言葉を使い、 「振袖」 に対し、 「袖を振る立場にない」 すなわち、結婚している人の着物として 「留袖」 が作られました。



私も、額田王の歌は、艶があり好きですが、娘の十市皇女の悲劇には心を痛めます。

十市皇女は、大海人皇子の息子である高市皇子と恋愛していましたが、母が天智天皇に嫁いだ事から、十市皇女は高市皇子との関係は引き裂かれ、天智天皇の息子である大友皇子と結婚し、葛野王を生みました。

しかし壬申の乱では、十市皇女にとって、実の父である大海人皇子と、夫である大友皇子の戦いになってしまい、夫である大友皇子は戦いに敗れました。


この内乱の後、額田王と十市皇女は天武天皇(=大海人皇子)に助け出されましたが、既に天武天皇は後の持統天皇と結婚しており、哀れな二人の女性と幼子の居場所はありません。

三十歳の若さで、十市皇女は亡くなったとされていますが、恐らく愛する幼子を残しての、自殺でしょう。



十市皇女が亡くなったのを知った、元恋人の高市皇子の挽歌が、



三諸(みもろ)の 神の神杉(かむすぎ) 夢のみに見えつつ共に 寝ねぬ夜ぞ多き

訳) 「三輪山の神々しい神杉のようなあなた、夢にみつつも共に寝ぬ夜が、多かった事だ」



また、675年2月に額田王、十市皇女、幼子の葛野王の三人が、伊勢神宮にお参りした時に、侍女が十市皇女に詠んだ歌が、



河のへの 斎(ゆ)つ岩群(いわむら)に 草むず常にもがもな 常処女(とことめ)にて

訳) 「河の流れに洗われて、苔の生えない岩々のように、永遠に清らかな乙女のようであって欲しい」



おそらく、若くして精神的にあまりに深い傷を負った、十市皇女を見かねての歌だと思います。  時代に翻弄され続け、あまりに悲しい運命を辿った彼女に、心を痛めずにはいられません。


シェクスピアの物語に、 「世の中に、これほど悲しい話は聞いた事がない・・・」 という一節がありますが、これは本当にあった話です。

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タグ: 額田王 万葉 宝塚

2012/1/20  20:26

投稿者:Author
中国の正史「宋書倭国伝」をさらに詳しく述べると、宋書倭国伝のなかで451年、宋朝の文帝が倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた記述や478年、宋朝の順帝が倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと記述されており、倭国(日本)が朝鮮支配をしていたのは明らかです。

2012/1/17  22:18

投稿者:Author
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日本に人質として出された余豊璋(三国史記表記)
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百済最後の義慈王(在位:641年 - 660年)の王子、余豊璋は人質として日本に出されていた660年に唐・新羅によって百済が滅ぼされ、宗主国の日本は天智天皇が百済復興支援のため、余豊璋を連れて百済に行き、唐・新羅と戦いましたが、これが白村江の戦いです。 しかしながら、余豊璋は途中で逃亡するも捕らえられ、唐に連行され、嶺南(中国南部)地方に流刑。 白村江の戦いで、百済は完全に滅亡し、貴族・職人・多くの奴隷階級の百済人が日本に逃れてきました。 天智天皇は百済人を暖かく迎えましたが、政治に関与する権限は与えておらず、事実として、天智十年に登用された天智朝の大臣等の人事にも百済人は含まれていません。 ちなみに三国史記は朝鮮の正史で、これは中国と朝鮮の正史に書かれた事実であります。

→韓国の人が認めたくない気持ちは分かりますが、新羅・百済が倭の属国であった事を自国の正史が記述しているのですから仕方ありません。

→この白村江の戦いに出るとき、伊予の松山で額田王が詠んだ歌が、万葉集に残されています。

「熱田津(にぎたつ)に船乗りせんと月待てば 潮もかないぬ今は漕ぎいでな」

(意味)
熟田津で船出をしようと月の出を待っていると、いよいよ月も出て、潮も満ちて航海に都合よくなった。さあ、こぎだそう。

2012/1/15  19:40

投稿者:Author
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百済と新羅が倭の属国であった証拠(朝鮮の正史にも書かれている)
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「広開土王碑」には、「もともとは、新羅と百済は高句麗の属民で朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民としてしまった。」 と公開した碑に刻まれています。

また、朝鮮半島の正史である「三国史記」にも、「397年に百済は倭国に太子を質に出した、402年に新羅は倭国に王子を質に出した」と記述があり、

中国の「宋書倭国伝」には倭王を新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸を軍事的に支配する「安東大将軍」に任じたと記述してあり、

「日本書紀」にも日本が新羅・百済を支配していた記述があります。

全く違った系統の歴史書で話が一致しており、中国・韓国・日本のどの文献にも、日本が朝鮮に支配された記述はなく、日本側が支配していた事は疑いようがありません。

⇒ 今春永さん、藤原兼良さん
事実・現実を受け止める勇気を持ってください。

2012/1/15  19:35

投稿者:Author
>百済は日本の属国であったなどとネットで語る貴殿は、「将来の日本史を混迷させることを目的にブログを開設しておられるのではないか」と思わせる。

→ですから、日・中・韓の正史を引き合いに出して言っているのです。 もう一度、読んでください。

一級資料見つかる 新羅は倭の属国
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1496.html
日本の属国であった新羅と百済
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1044.html
邪馬台国と卑弥呼-176  日本への朝貢
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1554.html

また、弥生人の90%以上が朝鮮人であるならば、なぜ日本人は朝鮮語を話さず、日本語を喋っているのでしょうか? 馬鹿げています。 これまた根拠のない思い込みといわざるを得ません。

2012/1/15  19:20

投稿者:Author
藤原兼良さん、私が貴殿の意見を思い込みと書いたのは読んでいただければ分かりますが、稲作の歴史の部分です。 今日ではDNA分析という科学的根拠により、稲作は中国の江南から伝わり、水稲は日本から朝鮮半島に伝わった事が明らかとなっております。 しかしながら貴殿はどうしても朝鮮半島から伝わったと言いたい。 だから思い込みといっているのです。 朝鮮半島の水稲が1500年前までしか遡れない以上貴殿の意見は思い込みと言わざるを得ません。 それともっと私が書いてあるDNAの部分もよく読んで理解してください。 

また、額田王が朝鮮人なら、何故朝鮮語を話していないのでしょうか? また、額田王が朝鮮語を話していたという文献は日・中・韓の文献に全く出てきません。 馬鹿げています。 思い込むのは結構ですが、もっとFactに基づいた理解ができるようになってください。 

2012/1/15  17:20

投稿者:藤原兼良
『額田王』は朝鮮人 (6)

人の歴史記事を批判・攻撃するからには、古代日本と古代朝鮮の関係をもっと多面的に深く勉強してください。日本・韓国には、とても尊敬すべき偉い研究者がたくさんいます。松本清張、亀井勝一郎、梅原猛、丸谷才一、司馬遼太郎、上田正昭、文定昌、金思此⇒f買氈キ餽宛Z姐勝エ睛同澄∈粥更醋澄エ眞[@カ∈戯氈キ浸彌咫ョ羮絽c隋∋核楫魑函⊂ケ浬せ亜¬ソ愎判 ̄戞ΑΔ覆匹いC蕕任發い泙后@崑臚ノ榁鰐昭\顱廚梁莪豐「痢崔鰐樵軅癲廚法峺殿緜`W譴汎ノ楔譴脇韻犬任△襦廚判颪C譴討い襪箸いΑ

2012/1/15  17:19

投稿者:藤原兼良
『額田王』は朝鮮人 (5)

飛鳥〜奈良時代、約600万人の人口の約90%が渡来人であると言われ、大和朝廷に縄文人の子孫はいず、朝廷を管理・維持していた人はすべて朝鮮人であり、「記紀」「万葉」は朝廷にかかわる渡来人によって書かれ、「大化改新」「大宝律令」は百済のエリートを主軸として作られている。「朝廷語」は百済語を中心としており、朝廷の人々の居住地は飛鳥であり、飛鳥の住民の約90%が朝鮮人であったと『続日本記』『姓氏録』に書かれているという。

古代史を判断するときは、史跡・遺跡だけに頼らず、鳥瞰図的に色々な角度から分析・追求しなければなりません。単に「稲作」の痕跡を頼りにして古代を語るのは片手落ちというものですよ。貴殿は、もっと「人口動態と文化形成の歴史」について勉強しなければ、ますます強い偏見の持ち主になる恐れがあります。貴殿の直感力・推理力に短絡性がある方のように思われる。新羅・百済は日本の属国であったなどとネットで語る貴殿は、「将来の日本史を混迷させることを目的にブログを開設しておられるのではないか」と思わせる。

2012/1/15  17:18

投稿者:藤原兼良
『額田王』は朝鮮人 (4)

学芸員の多くは、「日本海沿岸地域の“ずうずう弁”は朝鮮語の発音と同じである」ことさえ知らず、日本を中心に歴史を展開させる。古代日本は、先進文化をもつ朝鮮のお陰、いや、朝鮮人そのものの日本への移住によって花開いたことさえ知らずに、多くの人を集めて講演するなど、知識ある者から見れば馬鹿げた話である。

貴殿の文言「新羅・百済は倭の属国であった」「古代日本が朝鮮半島を支配していた」「日本最古の水田稲作は、2800〜3000年前に遡れる」「朝鮮の水稲稲作は日本から伝播している」などは奇異な話である。縄文晩期、倭国の人口は約9〜10万人ぐらいであったから、列島全域に散在させればどこに人がいるのかわからないほどである。2800〜3000年前の縄文人の稲作など、当時の人口から推測すれば、「鳥が落とした米」が繁殖した結果によるものかもしれませんよ。人間には直観力・推理力が天与の才能として賦与されており、蜘蛛や蜂以上に巧みな想像と創造ができる動物であります。

2012/1/15  17:18

投稿者:藤原兼良
『額田王』は朝鮮人 (3)

学芸員の講演や新聞に載せる記事のすべてが「古墳の形態」「発掘品」「発見された位置」などの話で終わる。「古墳から出た壷」が吉備の古墳の壷と同じであったから、吉備で作られた壷が出雲へもって来られたとか。「四隅突出型古墳」は中国山地 (三次など) で作られはじめたが、「日本海沿岸に同じ型の古墳が多いのは、中国山地から川をくだり日本海沿岸に広まったのでは」とか。「出雲の矢野地区で発掘された一つの壷に米粒の痕があったので、弥生時代、矢野あたりで稲作が行われていた」とか。道路改修のために掘られた田んぼから「沢山の土器が発見されたが、百個の内、弥生式土器 (朝鮮人作)」のものが一個しかないから、弥生時代、出雲地方の朝鮮人は百人に一人ぐらいであったとか。
弥生時代、九州で漢字を書いた「金印」が発見されているから「日本は奈良時代以前から漢字を知っていた」とか。九州にあったアメリカインディアン(廃語)集落のようなものをさして「倭国は九州にあった」とか。倭国の住民の約90%が朝鮮人であり、朝鮮南部の人々との交易は「朝鮮人同士のもの」であるのに、朝鮮南部を「倭国が支配していた」「日本の原住民 (縄文人の子孫) は朝鮮南部の人と交易をしていた」とか。

2012/1/15  17:17

投稿者:藤原兼良
『額田王』は朝鮮人 (2)
 
古代史にかかわる「講演会」などによく出席しますが、講演者はすべてと言えるほど遺跡発掘の仕事にかかわっている方で、講演のすべてが「遺跡から推測される話」です。「これらの答えは謎です」で終わり、一言で言えば、「中国 (大陸) から朝鮮半島を経て倭国へ来たものではないか」というものです。朝鮮の一言で十分なのに、必ず「大陸」「中国」を付加するのはどうしてでしょうか。

先日のテレビ番組で「出雲大社宮」「日本一の数が同時に発見された銅剣」「神在月」・・などの話になり、司会者が「どうして僻地であった出雲がそんなことになったのでしょうか」と地元の歴史博物館の学芸員に尋ねたところ、学芸員いわく「それが難しいんです」、司会者いわく「でも出雲は朝鮮に近いでしょう」、学芸員あわてた調子で「まあしいて言えば、中国から朝鮮半島を経て来たものではないかと」次第に声を落として答えました。その学芸員は「弥生時代の倭国の人口の90%が朝鮮人で、倭国の表玄関あった出雲には特に朝鮮人が多かった」「朝鮮と倭国は同じ生活圏にあった」などという核心に触れる話は一言もありませんでした。


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