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2007/11/25

フリーメーソン-15  フランクリン  フリーメーソン
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Benjamin Franklin (1706-1790)

イギリスから渡ってきたローソク職人の父を持ち、17人の子供のうち15番目の子供であったフランクリンは、10歳で学校教育を終え、「ニュー・イングランド・クーラント」紙を印刷出版していた兄のジェームズの徒弟となりました。

1731年、25歳のとき 「セント・ジョンズ・ロッジ」 に於いて、フリーメーソンに加入し、1732年にはジュニア・グランド・ボーデン、1738年にはセクレタリー、1749年にはプロヴィンシャル・グランド・マスター、1750年には副グランドマスターとなっていることが記録に残されています。

1752年には、フィラデルフィアのロッジ専用の建物(メーソンズ・ホール)を建設する計画にも関わっています。



18世紀のイギリスに誕生し、ヨーロッパ大陸に拡大していったフリーメーソンの理想が、真の意味で現実化したのはアメリカにおいてであります。

イギリス植民地から独立革命を経て、アメリカ合衆国となる歴史は、フリーメーソンの活躍なしに語ることはできません。


アメリカにフリーメーソンが入ってくるのは、1720年代のことであり、1730年12月3日と12月8日の2回にわたり、フランクリンの発行していた 「ペンシルヴェニア・ガゼット」紙は、フィラデルフィアのロッジにおける集会について触れています。

フィラデルフィアには、植民地最初のロッジである 「セント・ジョンズ・ロッジ」 があり、イギリスのグランドロッジの指導のもとに、本国と同様の活動が始まっていました。

1733年には、ボストンに有名な 「ファースト・ロッジ」 が開かれ、ヘンリー・プライスがイギリス本国のグランドロッジの承認を得て、グランドマスターとなり、その後彼はアメリカ植民地のニュー・イングランドのフリーメーソンの中心として活躍するようになりました。

1734年には、ジョージア州のサヴァンナにロッジが、軍人政治家、かつ博愛主義者であったジェイムズ・オグルソープによって開設されました。

ちなみに、このジョージア州という名前は、18世紀前半にサウスカロライナのイギリス人と、フロリダのスペイン人がにらみ合う中で、最初の英国移民団が1733年2月12日にサバンナに到着し、

州ではこの日を「ジョージアの日」と名付けて州の祝日とし、州名は当時のイギリス国王ジョージ2世にちなむ植民地名に由来しています。  このジョージ2世の長男が、イギリスでフリーメーソンとなった、イギリスで最初の王族であります。

その後、アメリカでは、1735年にはノース・カロライナ州とサウス・カロライナ州、1736年にはニュー・ハンプシャー州、1737年にはニューヨーク州、1743年にはヴァージニア州、1749年にロード・アイランド州、1750年にはメリーランド州とコネティカット州というように拡大してゆき、1760年にはアメリカの13の植民地の隅々に、フリーメーソンのロッジを見ることができるようになりました。

凧をあげて、雷が電気である事を発見したフランクリンですが、政治家でありながら科学者でもあるのは、啓蒙思想から生まれた、フリーメーソンの特徴です。 

アメリカ合衆国の独立に、表舞台にはあまりでてきませんが、多大なる貢献を行ったフランクリンは、十分にフリーメーソンの人脈を活かして功績をあげました。

1620年12月21日にメイフラワー号のピグリム・ファーザーズ(巡礼父祖)が上陸して、ピューリタンの信仰と自由と独立を求めたという、教科書で教えられた建国神話は必ずしも事実ではありません。

確かに英国教会から迫害を受けたピューリタンは、英国教会に改宗しないと殺されるとされたので、アメリカに渡りましたが、メイフラワー号の乗客102人のうち、分離派教徒(英国教会から分離を求め、弾圧を受けた清教徒)はわずかに35人にすぎず、

あとはヴァージニア植民地でひと旗揚げようとした英国教会の信徒であったのであり、ピグリム・ファーザーズ(巡礼父祖)という言葉が使われるようになったのは、メイフラワー号から200年近くたってからなのであります。

いつの時代も、人は自分が生きるためお金を求めて行動しているのです。

独立革命前のアメリカは、必ずしも一枚岩でなく、ピューリタンの宗教意識が支配的な北部植民地、 商業・貿易中心の中植民地、 大土地所有による農業を基盤とする南部植民地というおうに、13の植民地は政治・経済の構造、歴史・宗教・習慣の違いなど、とても同じ考えを持てるような土壌にはありませんでした。

この混沌としたアメリカを共通の思想の下に結びつける役割を果たしたのは、フリーメーソンであったのです。

これは、アメリカ中に張り巡らされたロッジで、最新のヨーロッパ情報を交換している間に、自然発生的にロッジがアメリカ独立革命の理念を醸成する温床になっていたからなのです。

現在の日本人の多くが、アメリカは最初からキリスト教国家と思い込んでおりますが、1796年、ワシントン大統領はトリポリ条約で、 「いかなる意味においても、アメリカ合衆国はキリスト教国家ではない」 と宣言しています。

アメリカ合衆国が 「キリスト教国家」 になるのは、20世紀に入ってからなのであり、1850年当時の記録では、キリスト教会に登録しているのは人口の16%にしか過ぎませんでした。

植民地時代のアメリカの人々をまとめていたのは、キリスト教ではなく、フリーメーソンの思想であった訳です。


また、意外かも知れませんが、フランクリンはアメリカで最初のスパイであった人です。 


アメリカの独立革命は、フランスに支えられ、イギリスに対抗し成し得たもであすが、フランクリンはイギリスの諜報部員 「エージェントNo.72」 として、ジャクソン、ジョンソン、ニコルソンなどの活動を行っていました。

フランクリンは独立宣言の草案をつくり、アメリカをイギリスから独立に導いた人物でありますが、あたかも2000年前にキリスト教徒が、ローマの暴君ネロ皇帝の目を逃れて集会を持ったように、

イギリスのバッキンガムシャーの教会の地下に設けられた洞窟で、フランクリンはヘル・ファイヤ・クラブ(地獄の業火クラブ)という怪しげな秘密組織のメンバーとして
活動していました。

彼らは、KKKのように白いマスクをつけ、互いに顔が分からないようにして集会を持ち、この会の設立者は大蔵大臣のフランシス・ダッシュウッド卿で、会員には、当時の上流階級のサンドウィッチ卿から首相まで揃っていました。  事実上、この秘密結社がイギリスのシークレットサービスであったのです。

イギリスとフランスが犬猿の仲であったため、フランスから信用されていたフランクリンは、フランスで入手した情報をイギリスとアメリカに送り、裏では独立戦争でアメリカが有利になるような工作をしていたのです。  

彼の凄いところは、このイギリスの怪しげな秘密結社に入会することにより、イギリス人たちとの友好関係を築き、最後にアメリカ独立をイギリス人たちを説得し、認めさすように工作し、見事に目的を果たしたことにあります。

最高度の哲学を持った 「二重スパイ外交官」 、それがベンジャミン・フランクリンであります。

フランクリンは、1757年にペンシルヴェニア代表としてイギリスに渡り、1775年までそこに滞在しています。  ボストン茶会事件のことは、彼がイギリス滞在中に聴いていることになります。

1775年、レキシントンにおいて、アメリカとイギリスの武力衝突が起こると、フランクリンはただちに帰国し、独立宣言の起草委員会の一人として活躍し、1776年の暮れには
アメリカ代表としてフランスに出発しました。

独立戦争中は、パリの社交界を中心に活動し、欧州諸国との外交交渉に奔走。  ルイ16世を説得し、フランスのアメリカ独立戦争への協力・参戦と、他の諸国の中立を成功させました。

1777年イギリス軍はカナダ方面から部隊を南下させる壮大な作戦を実行しましたが、10月にサラトガ村でアメリカに降伏する事になりました。  それを機に、1778年2月にアメリカとフランスの同盟条約が締結され、アメリカ独立戦争は勝利の道を歩むことになりました。

このフランスとの条約締結には、フランクリンのフリーメーソンの人脈に頼るところが大きく、当時フランスで最も力のあったロッジが、天文学者のラランドや、「百科全書」の寄稿者であった哲学者エルヴェシウスを中心とする 「9人姉妹のロッジ」 で、

エルヴェシウスの死後も、ロッジはその未亡人によって運営され、パリ近郊のパシーにあった邸宅で集会がもたらされていました。 

その雰囲気は、上流市民たちによるサロンに近いもので、フランクリンはパシーに滞在して、マダム・エルヴェシウスに接近し、 「9姉妹のロッジ」 に加入し、フリーメーソンの人脈をたくみに利用し、アメリカ独立戦争中のアメリカをフランスが支持するように工作したのでした。






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