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2007/12/9

フリーメーソン-19  船乗りジラード  フリーメーソン

日本ではあまり有名でありませんが、アメリカ建国時のスーパーヒーロー、スティーブン・ジラードもフリーメーソンでした。

彼は、フランス人でアメリカ歴代資産家のなかでJ・P・モルガンやデュポンをしのぐ富豪で、第二次英米戦争で資金不足のアメリカ公債は暴落し、アメリカの軍隊は苦戦を強いられていましたが、破産しかかったアメリカ政府の戦時公債を全て一人で買取り、アメリカを救った人物です。 分かりやすくいえば、国家の軍事予算をひとりの富豪が買い取ってしまったわけです。

彼は、1778年にサウス・カロライナ州チャールストンの 「ユニオン・ロッジ」 でフリーメーソンに加入し、 「ジラード・チャリティ基金」 を設けたり、貧しい孤児の為に、フィラデルフィアにジラード大学を設立しました。




ジラードは、1750年にフランスのボルドーの近くに生まれ、8歳で右目を失明し、そのハンディキャップの為に、人の心を深く読む事を学びました。

母が幼い頃に死んでしまい、継母のイジメに耐え切れなかったので、父の後を継いで、船乗りに成ることを決意し、

ジラードは、やがて船長になると、カリブ海域であるアメリカ東海岸の、西インド貿易を関わり、1774年にニューヨークに着きましたが、時まさにアメリカがイギリスに楯ついて独立革命に入ろうとしている時代でありました。


前年の1773年はボストン茶会事件が起こった年で、彼がアメリカに上陸した翌年の1775年4月19日に、アメリカ独立戦争の火蓋が切られ、6月15日にはジョージ・ワシントンが植民地総司令官に任命され、本格的な戦闘に突入してゆきました。

その頃、新国家の建国を唱える民衆の指導者であったベンジャミン・フランクリンに刺激を受けたイギリス人のトマス・ペインがアメリカに渡り、 「コモン・センス(常識)」 というパンフレットを出版し、雄弁な言葉で独立宣言の必要性と新しい共和国の建国を提言すると、それまで静観していた人達の間にも、独立の気運が広がってゆきました。

さらに、イギリスと敵対していたフランスのルイ16世が、アメリカの植民地軍への軍需品の援助を命じて、イギリスに対する戦意はいやがうえにも高揚してゆきました。

1976年6月7日には、のちに南北戦争で南軍を率いるリー将軍の一族である、リチャード・ヘンリー・リーが独立を提唱し、ジョン・アダムズ(後の第二代大統領)、トマス・ジェファーソン(後の第三代大統領)ら5人の独立宣言起草委員が任命され、ついに7月4日にデラウエア河畔のペンシルヴァニア南東部フィラデルフィアにて、独立宣言が出され、アメリカが建国されました。

翌年には、フランスのラファイエット侯爵が義勇軍を組織し、植民地アメリカ軍の応援に
駆けつけ、イギリスは大敗を喫したものの戦いは続き、1778年にフランスが北米の独立を承認すると、イギリスとフランスの海軍が新たな戦闘に突入します。

この年、フランスの大蔵大臣ジャック・ネッケルが、追放されていた経済学者ピエール・デュポンを復帰させ、要職につけ、アメリカの死の商人デュポンを生み出すことになりました。

当時、ヨーロッパでは1779年にスペインがイギリスに宣戦布告、80年にはハプスブルグ家のマリアテレジアが死去するという混乱の時代であったため、新大陸の人々はアメリカの独立を確かなものにするために、ヨーロッパに頼らず、軍事財政の困難を解決するために、フィラデルフィアの裕福な90人の商人たちがペンシルヴァニア銀行を設立しました。

1781年10月19日、チャールズ・コーンウォリス率いるイギリス軍がヨークタウンで、ワシントン将軍のアメリカ・フランス連合軍に破れ、名実ともに独立戦争は終結し、1789年4月30日、ジョージ・ワシントンが、ニューヨーク市で初代大統領に就任しました。

1781年12月31日に、初代財務長官ハミルトンがフィラデルフィアの大富豪ロバート・モリスが手を組み、アメリカ国家最初の銀行として北米銀行の設立を議会で承認させ、初代頭取にはトマス・ウィリングが就任しました。

しかしながら、1789年7月14日にアメリカが頼みとする盟友国フランスで、バスティーユ要塞が襲撃され、フランス革命が勃発し、安閑としていられないアメリカは、1790年にフィラデルフィアをアメリカの首都に定めると、これまでの北米銀行ではなく、公式の予算を扱う国立銀行を設立することを議会で決め、91年に「営業許可期限20年」という条件付で、合衆国銀行The Bank of United States(通称ファースト・バンク)が誕生しました。

ジラードは、雑貨と酒の貿易商人として大いなる成功を収めていましたが、フィラデルフィアで黄熱病が発生しても、富豪の身でありながら、黙々と荷車を押して病人を病院に運び続け、多くの人々に感謝されました。

第二代大統領に就任したジョン・アダムズは、97年11月1日に現在のワシントンDCに移って執務を開始し、1800年に首府を正式にフィラデルフィアからワシントンDCに移しました。

1810年に、アメリカ海域へのフランス・イギリスの軍艦立ち寄り禁止法が成立し、折り悪く11年に合衆国銀行の営業許可が断ち切れた翌年、アメリカはイギリスに宣戦布告しなければならなくなったものの、アメリカ公債は暴落し、議会が合衆国銀行の営業を許可できずにいるとき、ジラードがこの宙に浮いた銀行を丸ごと買い取り、銀行はジラード銀行と改名され、アメリカ政府は危機を脱することができました。

この第二次英米戦争でアメリカは、最後にはイギリスとの講和条約に調印し、ようやく終戦にこぎつけ、終戦後新たに第二合衆国銀行Second Bank of the United States が設立されると、資本の大半はジラードが出資し、ピエールの長男ヴィクトル=マリー・デュポンと次男エリュテール=イレネー・デュポンが重役に就任しました。

かくして、アメリカという国家は、建国以来、軍需産業と結びつく財閥によって資本が受けつがれ、その呪縛から逃れなくなってしまっているのです。


ところで、このアメリカ建国時のスーパーヒーローのジラードの遺産相続はどのようなものであったのでしょうか。  1831年に大富豪ジラードが81歳で死去した後、親族がどっと彼の屋敷に押し寄せましたが、遺言状には 「在命中の弟一人と、姪11人に5,000〜20,000ドル、家族持ちの姪一人にだけ60,000ドル」 とあり、「残りは全て孤児、病院、障害者施設、学校、貧困者を助ける燃料、海難家族救済協会、運河建設に使われる」 と明記されていました。






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2007/12/10  3:30

投稿者:Renaissancejapan
道徳国家アメリカがフリーSEXの国になってしまったたのは、「性の解放」を訴えたオーストリアの共産主義者のヴィルヘルム・ライヒの思想が、1960年代にアメリカにもたらされてからで、性の解放の結果、生活力の無いティーンエージャーの出産率が激増し、子育て放棄、10代での離婚が横行し、古き良きアメリカの象徴であった「家族の絆」はものの見事に破壊されました。

2007/12/10  3:20

投稿者:Renaissancejapan
ジラードの生き方は、まさに啓蒙思想のフリーメーソン精神そのもので、道徳国家アメリカをあらわすものだと思います。  

2007/12/9  20:33

投稿者:ヌマンタ
恥ずかしながら、この人物のことは全く知りませんでした。御紹介ありがとうございます。それにしても、見事な遺産相続です。もっと世に知られても良さそうな人物ですね。

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