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2008/1/13

フリーメーソン-31  ジョン万次郎  フリーメーソン
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中濱万次郎(1827-1898)

高知県土佐清水市の中浜に、貧しい漁師の子として生まれた中濱万次郎(ジョン万次郎)は、14歳の時に漁で遭難し、アメリカの捕鯨船に助けられて、そのまま船長にアメリカに連れて行かれ、育てられました。  そしてペリー来航の2年前に帰国し、幕府の旗本となり、アメリカとの交渉の通訳として活躍することになりました。

当時は、フリーメーソンの新世界秩序で、世界をワンワールド化しようとする動きがあり、アメリカでは西部開拓を進めていた時代で、さらにその先の日本に、イギリスに先んじて、進出しようとするアメリカの戦略があり、日本語のできる諜報部員を育成する必要があると、フリーメーソンであるペリー提督も日記に書いていた時期でありました。

ジョン万次郎は、アメリカ、またフリーメーソンの諜報部員として教育され、日本に送り返されたと推測されます。  論より証拠、高知県足摺岬にあるジョン万次郎の銅像の写真を見て御覧なさい。  左手には、フリーメーソンのシンボルである直角定規とコンパスをもっています。 



中濱万次郎は、文政10年(1827年)、土佐清水の中浜に貧しい漁師の子として生まれました。 9歳のとき、父を亡くした彼は、家計を助けるために中浜浦の今津嘉平宅に家っ子として雇われ、仕事は子守、米つき、台所係などでありました。

しかし天保12年(1841年)一月の初め、主人に叱られ、浜まで一目散に駆けだすと、そのまま冬の海に飛び込んでしまい、真冬の海を隣村の大浜まで泳いでいくと、たまたまそこで荷揚げをしていた岡郡宇佐浦(現在の土佐市)の漁船に助けられ、事情を話してその船の台所係として雇ってもらいました。  万次郎14歳のことであります。

こうして運よく父親と同じ漁師になりますが、一ケ月もしないうちに遭難してしまい、黒潮に流され、伊豆諸島の最南端の鳥島に漂着しました。 漂着して約4ケ月後の1841年6月27日に、アメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号のウィリアム・ホイットフィールド船長に救出されました。 

万次郎と4人の日本人漁師を乗せたジョン・ホーランド号は、それから半年かけて、12月にオアフ島のホノルルに到着。 まだ若い万次郎だけが捕鯨船にそのまま同乗し、ほかの4人はホノルルに残ることになりました。

船は、太平洋から南米のホーン岬を回って太平洋を北上し、ホィツトフィールド船長の故郷マサチューセッツ州フェアヘブンに着きましたが、アメリカで万次郎は 「ジョン・マン」 と呼ばれ、いつしか日本でもジョン万次朗といわれるようになりました。

フェアヘブンでは、船長の家に世話になり、アメリカの学校まで入れてもらい、それまで無学だった彼は、そこで初めて読み書きを習い、小学校を終えました。 さらに、パートレット・アカデミーという学校に入り、高等数学、航海術、測量術を学び、優秀な成績で卒業したとされています。

しかしながら、日本での教育を受けなかった万次郎は、会話は出来ても、英語の文章を翻訳することが出来ず、明治維新後に活躍することはなかったようです。

漂流してから、たちまち5年の歳月が流れ、再び捕鯨船に乗り、捕鯨の仕事に就き、一等航海士となり3年後には、乗っていたフランクリン号の副船長にも選ばれました。 

その後、万次郎は故郷が恋しくなり、ゴールドラッシュのカリフォルニアに行き、一儲けして旅費を稼いで、日本に帰ったとされていますが、多くの疑問があります。 先ず、お世話になった船長に十分な恩返しもせずに、いきなり日本に帰国するとは、当時の日本人の道徳観では理解できない行動です。  また、当時の海外渡航費は今と違ってかなり高額と思われますが、そんなに簡単に金を採取することが本当にできたのだろうかという事です。

また、アメリカに滞在しているわずかな期間に、ペリー家、ルーズベルト大統領の祖父にあたるワレン・デラノの名門デラノ家とも人脈を築いているのです。  ただの漂流した日本人漁師の少年が、この若さでこれだけの大物たちと接触できるには、アメリカの政府かフリーメーソンなどの組織が関与しない限りありえない話であると思います。

フリーメーソンであったペリー提督の孫娘が、アメリカのクルー駐在大使夫人として長く日本に滞在し、万次郎とのつながりで、ずっと中濱家と親しくしている事実、

また1933年6月8日、ルーズベルト大統領が、当時田園調布に住んでいた万次郎の息子、中浜東一郎氏に手紙を宛てており、その文面を以下のようなものでした。

「石井菊次郎子爵(駐米大使)がワシントンに来たとき、あなたが東京に住んでいることを知り、あなたの有名なお父上について話し合いました。 私はフェアヘブンのワレン・デラノの孫です。 祖父はお父上をフェアヘブンにお連れしたホイットフィールド船長の船の所有者のひとりなのです。 私の記憶によると、あなたのお父上は、私の祖父の家の筋向かいのトリップさんの家に住んでおられたということです。 フェアヘプンの学校に通い、ときどきデラノ家の者と教会に一緒に行った小さな日本の少年についてのいろいろなことを、私が少年のころ、祖父がよく話してくれたのを覚えています。 私もフェアヘブンにはよく行きました。 私の母方の家族は、いまだに古い家を持っています。 中浜という名前は、私の家族の記憶にいつまでも残るでしょう。 あなたか家族のどなたかが合衆国においでになったら、ぜひお立ち寄りください」


ルーズベルト大統領の祖父のワレン・デラノは中国のアヘン貿易で財を成し、長男のフレデリック・デラノは中国で生まれています。

さらに彼は、ロスチャイルドの米代理人のJ・P・モルガンの経営する金融機関「クーン・ロ−ブ商会」と組んで、多くの鉄道を乗っ取り、アメリカの大鉄道経営者になり、デラノ家は代々メーソンで、ここから必ず300人委員会のメンバーが選出されるほどの名門であります。

アメリカ第30代大統領カルピン・クーリッジも、 「ジョン・マンの帰国は、アメリカ最初の大使を日本に送ったに等しい」 とまで言い切っています。

実際、ジョン万次郎が沖縄に着いたとき、薩摩藩はジョン万次郎をスパイ容疑で捕らえ、尋問・投獄しています。 

貧しい漁師の子供が、当時の士農工商の身分制度を飛び越えて、いきなり幕府の旗本になれるものなのでしょうか。 

ともあれ、ジョン万次郎は日米修好通商条約の批准書を交わすために、通訳として咸臨丸に乗ってサンフランシスコに行き、

多くの維新の志士たちに影響を与え、土佐藩の教授館で坂本龍馬、河田小龍、後藤象二郎たちに教えた西洋事情は、龍馬と後藤象二郎が長崎から土佐に向かう船の中で作った 「船中八策」 に生かされ、それがのちに明治新政府の綱領 「五箇条の御誓文」 の基礎案となっており、開国、日米修好通商条約、明治維新に大きな貢献を果たすことになりました。 

ジョン万次郎がフリーメーソンであったという事実は、正式な記録として文書に残されていませんが、銅像の左手に持つ、フリーメーソンのシンボルである直角定規とコンパスは何を言わんとしているのでしょうか。

少なくとも、フリーメーソン、アメリカに諜報部員として教育され、日本に送り返された、彼らのエージェントであった事は事実でしょう。
 
 






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