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2008/1/19

フリーメーソン-34  グラバー来日  フリーメーソン
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若き日のグラバーと当時の長崎


グラバーは、19歳の時にビジネスチャンスを求めて上海に行き、ジャーディン・マセソン商会に入社、そして幕末の動乱の日本に興味を持ち、1859年(安政6年)9月19日に長崎に到着、21歳の時でした。




グラバーは、長崎に到着すると、約1ケ月後の10月22日に長崎のイギリス領事館におもむき、在留名簿に登録。  

居留先は、当時ジャーディン・マセソン商会の長崎代理人でもあったケネス・マッケンジー(Kenneth Ross Mackenzie)のところで、職業欄には「商会事務員」と記載されており、これはマッケンジーの下で働いていたことを示します。

マッケンジーは、スコットランドの貿易商で、開港に先立ち1859年9月1日に既に長崎に到着し、2月にはジャーディン・マセソン商会の傭船トロアス号が砂糖など、日本向けの商品を積んで長崎に到着するのを出迎えています。 この時、マッケンジーは54歳で、長崎居留の貿易商の中でも最年長者で、1859年10月からはフランス代理領事も兼任。


開港後、居留地造成の為に、大浦海岸一帯の地域が埋め立てられ、1860年5月には「長崎港湾規則」が定められ、9月には「長崎地所規則」が公布されました。  10月には第一期の埋め立て工事も完成し、居留地区画申請者の選択優先順位に関する規約が作成され、居留地区画の割り当てと登記が行われました。

大浦地区の一番はポルトガル代理領事でもあるデント商会のジョセス・エヴァンス、二番はフランス代理領事でもあるジャーディン・マセソン商会のマッケンジー、三番はアメリカ代理領事でもあるウォルシュ商会のウォルシュ、四番はサッスーン商会のエツェキールがそれぞれ入手。

グラバーは、来日時期は早かったにも関わらず、マッケンジー商会に勤務していたため、「二人以上の共同事業の場合には、ことなる利害関係を代表する居留民すべてが考慮されるまで、そのうちの唯一人の申請にもが考慮されるに過ぎない」 という選択優先権現約の第三項に該当し、海岸通り区域の第一次選択に参加することができませんでした。

こうして、グラバーは、海岸通を一歩はいった大浦二十一番(613.7坪)の地を選択し、翌1861年1月に借地料保証金を払い込み、

そうして、グラバー邸は、フリーメーソンと明治維新の志士たちの秘密の密会所となり、明治維新は成し遂げられました。  

フリーメーソンのロッジは、外国人居留地47番街にあり、現在グラバー園内のフリーメーソンマークの入った石柱横の解説がそれを伝えていますが、それによると1865年にはロッジの存在が確認されていたようです。  ちなみに、47番街というのは、グラバー邸を下った目と鼻の先です。

Wikipediaによると、 「グラバーはスコットランド系のフリーメーソンで、邸内にはフリーメイソンリー特有のマークをみることができる」 とあります。


グラバーが来日した1859年とは、どんな時期だったのでしょうか? 

1853年に黒船で来襲し、徳川幕府の開港拒絶を弱腰と見抜いたペリー提督が、強圧的な態度にでた8ケ月後に幕府はあっさりと開国し、1854年に日米和親条約が締結され、1858年には日米修好通商条約を締結。

これを突破口にイギリス、オランダ、フランス、ロシアは次々と通商条約を幕府に突きつけ、それらが受諾されたのが1858年。

外国の言いなりになる幕府の弱腰に、尊皇攘夷が誕生し、日本のあちこちで攘夷テロが起こり、外国人が狙われていた時期でありました。

幕府の大老井伊直弼・老中間部詮勝らが、その施策「日米修好通商条約への調印および徳川家茂の将軍職継承」への反対派を大弾圧した事件を 「安政の大獄」 といいますが、1858-1859年に起こった事件で、ちょうど グラバーが長崎に到着 した時期と重なっており、

「安政の大獄」は、井伊直弼が1860年3月の桜田門外の変で暗殺された事により収束しています。  

グラバーが長崎に来たときは、まさに幕末の動乱期であったのです。








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