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2008/1/23

フリーメーソン-37  アーネスト・サトウ  フリーメーソン
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Ernest Mason Satow (1843-1929)

アーネスト・メーソン・サトウは、ミドルネームのメーソンが表しているように、正真正銘の石工の家系です。 彼はイギリスの外交官で、駐日領総事ラザフォード・オールコックや駐日公使ハリー・パークスの下で活躍し、明治維新に大きな貢献をした人物です。

それは、22歳のサトウが「ジャパンタイムズ」に書いた「English Policy(英国策論)」に、 「徳川幕府を倒し、天皇と大名連合体が日本を支配しなければならない」 とあり、徳川が約束した兵庫開港の期日が遅れるようなことがあれば、 「イギリス政府は強制と流血に訴えると」 したもので、この期日が2年後の1868年元旦であり、明治維新の年でした。

この「英国策論」の翻訳が出回り、徳川についていた大名たちは浮き足立ち、維新勢力は勢いづき、明治維新という革命は成し遂げられ、1868年に明治新政府が発足しています。




アーネスト・サトウは、スウェーデン人の父と、イギリス人の母の間に、1843年にロンドンで生まれました。

1861年イギリス外務省に入省、通訳見習として清国に赴き、1862年9月に英国駐日公使館の通訳見習として来日。  その直後の9月14日、生麦事件が勃発しています。  

当時、駐日総領事ラザフォード・オールコックは一時帰国しており、1863年には薩英戦争の現場に立会い、1864年には四国艦隊下関砲撃事件にも立ち会いました。

後に正規の通訳官及び書記官に昇進し、駐日公使ハリー・パークス(在任、1865年-1882年)の下で活躍、1883年まで日本に滞在してます。

1884-1887年、シャム駐在総領事代理、1889-1893年ウルグアイ駐在領事、1893-1895年、モロッコ駐在領事を経て、1895年7月28日、駐日特命全権公使として、1900年まで日本に戻りました。

日本滞在は、通算25年の長きに渡り、後にも先にも、これだけ日本語が出来、日本を愛した外交官はいないとまで言われている日本通のイギリス人でした。

彼が1866年(慶応二年)に横浜で発行された週間 「ジャパン・タイムズ」 に明治維新の原型となる一文があり、冒頭で紹介したように、イギリス政府による革命の宣戦布告に、徳川勢は浮き足立ち、維新勢力が勢いづき、明治維新という革命を成し遂げる事となりました。

日英同盟は、サトウが日本を去った2年後である1902年(明治35年)1月30日に、日本人で初めてイギリスのフリーメーソンとなった林董(はやしただす)駐英公使と、イギリスのペティ・フィッツモーリス外相により調印されましたが、親日家のサトウのロビー活動があったが故であったことも忘れてはなりません。

1900年(明治33年)、伊藤博文が4度目の首相の座に座りましたが、このときの在日英国公使がアーネスト・メーソン・サトウです。

ちなみに、林董が所属したロッジは、ロンドンの「エンパイヤー・ロッジ No.2108」で、1903年5月29日には第三階位となり、1904年にはロッジマスターにのぼりつめています。








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