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2008/2/11

フリーメーソン-49  グラバーと坂本龍馬の対面  フリーメーソン
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グラバー邸のダイニング

坂本龍馬とグラバーが初めて会ったのは1864年2月で、勝海舟とともにグラバー邸を訪れています。 この時、龍馬にとって初めての長崎で、約40日間も長崎に滞在しました。
龍馬31歳、グラバー28歳の時でした。


龍馬は1862年(文久2年)3月に脱藩していますが、当時脱藩は藩に対して罪を問われて逃亡、もしくは食えないからホームレスのように都会に職を求めてするもので、脱藩には刑罰が伴い、家族にもその刑罰は及びます。  

龍馬がそれほどの罪を犯した形跡はなく、彼自身が 「見聞を広げるために自由に羽ばたきたい」 などと、厳格な武家社会に於いて、下級武士が自分が属する藩から脱藩できるような時代ではありません。

幕末の混乱期、各藩ともに政治状況がどうなっているのか、江戸、京都、他藩にスパイを送り込んでいました。 分かりやすく言えば、徳川派、公武合体派、尊皇攘夷派の勢力図を調べていたのです。 どの勢力につくべきか分からなかった頃、成り行きを見守り、自藩内の徳川勢力、尊皇攘夷勢力のどちらも泳がせ、結論はそれからで良いというのが、大方の上層部の考えでした。

土佐藩でいうと、公武合体派の吉田東洋が率いる勢力と、尊皇攘夷の武市瑞山が率いる勢力があり、それぞれの勢力からスパイを送り込み情報収集していたのです。 

土佐藩にとっては、龍馬は江戸の経験を持ち、江戸の千葉道場や佐久間象山塾で、勤皇派に顔を売っており、脱藩の下士(郷士)でもあったことから、藩に問題が及ぶようなことになれば、いつでも龍馬を斬り捨てる事ができたので、彼は好都合でありました。

当時の下士に対する差別はひどいものがあり、住む場所も城下ではなく商人や職人の住む郊外、登城する服装も細かく規定され、上士は麻の裃(かみしも)に絹の鼻緒が許されていたのに対し、下士は紙の着物しか許されておりませんでした。 

また、二本差しは許されているものの、なんと百姓・町人と同様に 「斬り捨て御免」 の
対象であった為、幕末混乱期のスパイ活動は、藩が下士を送り出していたケースが多かったのです。   千葉道場などの有名道場には、全国から諜報活動の任務を負った者達が集まり、お互い情報交換の場としていたのです。

龍馬の場合も、形の上では 「剣術習得願い」 が提出された事になっていますが、下級武士からそのような大それた願いが出せるわけでもなく、またそれが受理されるほど武家社会は甘くはありません。  彼は、土佐藩から諜報活動の任務を受け、千葉道場へ送りだされたのであり、その証拠に龍馬の江戸行は、藩の家老福岡家の 「御用日記」 にきちんと載っています。

幕府は朝廷の動き、またグラバーやジャーディン・マセソン、ロスチャイルド、サッスーン、英国政府の動きが気になるところで、神戸海軍操練所に所属する勝海舟と龍馬を使って、戦艦の操縦技術を教わりながら、外国人教官から様々な海外の情報を収集していました。  

そういう意味では、坂本龍馬は土佐藩と徳川幕府のダブルエージェントであったといえ、脱藩しているのでどこの藩にも属さない、また度胸がありどこにでも踏み込み、人懐っこく人を惹きつける魅力のある龍馬は、グラバーにとって理想的なエージェント(パートナー)と映ったに違いありません。


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