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2008/4/9

フリーメーソン-80  エドモン・ド・ロスチャイルド  フリーメーソン
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Edmond de Rothschild (1845-1934)


ロスチャイルド・フランス家の、エドモン・ド・ロスチャイルド男爵は、 「現代イスラエルの父 」 として、イスラエルの人々に慕われています。



そして、エドモン・ド・ロスチャイルド男爵を称えて、発行されたイスラエルの記念切手もあります。


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ユダヤ人が、ロシアなどヨーロッパ北東部に本格的に移住するようになったのは、ライン川沿いで十字軍のキリスト教兵士による虐殺が行われた11世紀以降の事で、ユダヤ人は、きこりや行商をして生活をしていました。

ロシア皇帝が、税金の取立てにユダヤ人を使うようになり、圧制に苦しむ民衆は、その鬱憤をユダヤ人に向け、また秘密警察も、民衆のロシア皇帝に対する怒りをユダヤ人に向けてそらすために、民衆を扇動しました。

こうした状況下で、1871年にウクライナ地方のオデッサを手始めに、 「ポグロム」
が起こるようになりますが、ポグロムとはロシア語で、「略奪・殺人を伴う暴動」の意味であります。


ヴァチカン市国
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1.html
キリスト教の勝利
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/468.html
日曜日が休日となった理由
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/467.html
反ユダヤ思想
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/469.html
ユダヤ人と金融
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/169.html


ローマ教皇とナチス
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87%E3%81%A8%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%A4%A7%E6%BE%A4-%E6%AD%A6%E7%94%B7/dp/4166603647/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1207356419&sr=1-1


混乱する社会情勢の中で、最も弱いユダヤ人をスケープゴートにする、ロシア民衆のポグロムは、1920年代まで繰り返し発生し、ポグロムのために、住む場所さへ無くしたユダヤ人は大量に国外に逃れることになります。

その流れには、新天地アメリカに向かうものと、パレスチナに向かう2つがありましたが、後者は自らの国家を再建する以外に、ユダヤ民族は生き残ることができないとする「 シオニズム 」 の胎動でありました。


シオニズム-1
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/585.html
シオニズム-2
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/586.html


当時、パレスチナはオスマントルコの領地で、人口は半ば遊牧民のアラブ人が46万人、ユダヤ人が2万〜2万5千人で、このうち1万5千人ほどがエルサレム周辺に住み、残りはガリラヤ地方とヘブロンに住んでいました。

1881年、ロシアから101人の移民が、地中海に面した港町ヤッフォに到着しますが、水不足や疫病で、入植の試みはことごとく失敗に終わり、絶望の淵に立たされている時、パレスチナの使者から切迫した事情を聞いたパリのエドモン・ド・ロスチャイルド男爵が3万フランの援助を寄せましたが、これがエドモンドのパレスチナへの関わりの始まりでありました。

入植者は、この援助金のおかげて、持ちこたえて生き延びることが出来、それを伝え聞いたロシアから新たな移民が続きましたが、この時のエドモンドの寛大な援助なくしてはユダヤ人の祖国帰還運動は挫折して今日のイスラエルはなかったであろうとされています。

ユダヤ人によるエルサレムのシオンの丘への帰還運動(シオニズム)は、テオドール・ヘルツェルが、1894年にパリでフランス陸軍砲兵大尉アルフレッド・ドレフュスがユダヤ人ゆえに、スパイ罪を着せられたのを目撃してから始まったものですが、エドモンド男爵の援助はそれ以前からのものでした。

エドモンド男爵はそれ以降、入植地の維持に援助するだけでなく、パレスチナの土地にあった作物を研究し、入植運動が成功するように、あらゆる手を尽くしました。

巨額の資金を入植地に送るうちに、エドモン男爵は自らも入植地を開拓し始め。旧約聖書が語るパレスチナを、 「密と乳の滴る地」 にする夢を膨らませ、1887年フランスのマルセーユから自家用ヨットでヤッフォに到着し、死ぬまでパレスチナのユダヤ人の入植活動に没頭しました。

彼の支援のおかげで、100もの入植地が成功をおさめ、そこではブドウ、オレンジ、アーモンド、オリーブ、ジャスミン、ハッカ、煙草などが栽培されるようになりました。


これは、エルサレムがローマ軍に破壊されてから初めての、ユダヤ人による本格的な農作物の収穫でありました。


ヘルツェルらが、1897年にスイスのバーゼルで第一回シオニスト大会を開いて以降、入植運動はイスラエル建国のための政治活動へと変質してゆきますが、エドモン男爵は終始慈善事業家としての立場を崩さず、政治的にはシオニズムに距離を置く態度をとりました。

しかしながら、20世紀に入って、ロシアとその支配下の東欧で、ポグロムが激しさを増し、ロンドン・ロスチャイルド家の当主、ナサニエルは祖国建設運動に理解を示すようになり、イギリス政府の説得に動き出しました。

ロスチャイルド家のイスラエル建国への働きかけは、第一次世界大戦終結と同時に急速に高まり、ロスチャイルドを含む数人の有力なユダヤ人は、第一次世界大戦終結の際、敗戦国ドイツに課せられた条約の文言を任せられました。

条約により、ロスチャイルド家はドイツが所有していたオスマントルコ領地のパレスチナの「鉄道権」を得、 ロンドンのロスチャイルド家は、トルコ共和国に約1億ポンドの貸し付けを行なっており、第一次世界大戦後、敗戦国側だったためにトルコ政府が崩壊すると、ロスチャイルド家はそのトルコに対する貸し付けの未払いを理由に、パレスチナに対する権利を要求しました。

また、ロンドンのロスチャイルド家はイギリス政府内の代理人を通して、イスラエル建国へとつながる階段を強固に築き、

第一次世界大戦後、イギリスはパレスチナに対する「委任統治権」を与えられましたが、政府はロスチャイルド家の命ずるところに従いました。

1917年11月2日、フリーメーソンのイギリス外相バルフォアは、ロンドン・ロスチャイルド家のライオネル・ロスチャイルド宛に、 

「イギリス政府はパレスチナでのユダヤ人の国家建設を支持し、努力する」 

事を約束した手紙を出しましたが、これが有名な「バルフォア宣言」であります。


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左は外相バルフォア、中央はバルフォア宣言文、右はライオネル・ロスチャイルド


そして、第二次世界大戦が終わり、イギリスはパレスチナ問題を国連に任せると宣言し、1947年11月29日、ニューヨークの国連本部で、国連総会ではパレスチナをアラブ人とユダヤ人の2つの国に分割し、エルサレムと周辺を国際監視下に置くという処置が採択され、半年後にイスラエルは建国を宣言しました。


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イスラエル国歌 (Hatikvah =希望)
http://www.youtube.com/watch?v=H6WMtyuAazc&feature=related
Hatikvah  Barbra Streisand version
http://www.youtube.com/watch?v=9JTmoJXcpyA&feature=related


エドモン男爵は、何度目かのパレスチナ訪問の時に、この地を永眠の場所に選び、それは海岸沿いの斜面に自然に出来た洞窟の一つで、ヘブロンの洞窟に眠るイスラエル民族の祖アブラハムにならおうとしたのかも知れません。

入植の人々を助けて、イスラエル建国の基礎を築いたエドモン・ド・ロスチャイルド男爵夫妻は、今も洞窟に眠っており、その周辺は男爵の記念公園になっています。






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