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2008/4/20

エリザベート  女性を考える
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Elisabeth Amalie Eugenie (1837-1898)


エリザベートは、バイエルン王家のヴィッテルスバッハ家の一族として生まれ、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフにみそめられ16歳で結婚。 自由奔放に育った彼女は宮廷生活になじめず放浪し、晩年息子のルドルフ皇子の自殺により悲しみに打ちひしがれ、1898年9月に旅行中のジュネーブのレマン湖のほとりで、イタリアの無政府主義者ルイジ・ルケーニによって殺害されました。  

自由闊達で明るい性格で、当時ヨーロッパの王室の中で最も美しいとされた美貌、またハプスブルグ帝国の最後の皇女として、その悲劇性に満ちた人生を送ったことなどから、100年以上たった今でも彼女を応援する人は多く、世界中の人々に愛され続けています。


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いつ見ても、聡明で気品に溢れながらも、どこか人懐っこく、優しそうなシシィ (エリザベート) は、見飽きることがありません。


エリザベートは、1837年12月24日、バイエルン王国のヴィッテルスバッハ家につながる、マクシミリアン公爵とバイエルン王国の王女ルドヴィカとの間に、8人兄弟姉妹の次女として生まれました。

ヴィッテルスバッハ家は、11世紀以来、700年にわたって続いてきた名家で、ハプスブルグ家に次ぐ勢力を持っていました。


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エリザベートの実家


オーストリア国境に近い、アルプス山脈のふもとにあるポッセンホ−フェンの館が見えますが、そこには厩舎には馬、また館の敷地内を駆け回る犬たちや、大自然に囲まれた穏やかな雰囲気の中で、エリザベートは生まれ、愛称「シシィ」と呼ばれながら、育ってゆきました。


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幼少の頃のエリザベート


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エリザベートの父 マクシミリアン公爵


父マクシミリアン公爵は、情熱家で何よりも自由を愛し、束縛を嫌う開放的な人物で、音楽を愛し、自ら民族楽器チターを弾き、その普及にも努め、詩人である一方、乗馬や狩猟、釣りを好むスポーツマンであり、

エリザベートと兄弟姉妹は、ヴィッテルスバッハ家のよき伝統と感性豊かな父の影響もあって、のびのびとした幼年時代を過ごしました。


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少女時代のエリザベート


姉のヘレネは、母親の言うことをよく聞き、礼儀正しい優等生でしたが、エリザベートは父親の血をひいた感受性の強い芸術家気質であり、語学や作文、絵画などに熱中し、野山を駆け巡っているかと思うと、突然にもの思いにふけり、夢見がちで、詩を書いたりもしました。   

エリザベートが特に熱中したのが乗馬で、それは生涯かわる事はなく、バイエルンの美しい自然の中で、夢想的で野生的な乙女に育ってゆきました。


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乗馬をするエリザベート


その頃、オーストリア帝国で何が起こっていたかというと、バイエルン王マクシミリアン1世の王女として生まれたゾフィ−が、オーストリア皇帝フランツ1世とマリアテレジアの間に生まれた3男のフランツカールと政略結婚させられ、フランツ・ヨーゼフを産み、彼は24歳になっていました。


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フランツ・ヨーゼフを抱くゾフィ−


ゾフィ−大公妃は、エリザベートと同じバイエルン王家の出身で、エリザベートの母親とは姉妹で、エリザベートの伯母にあたります。  彼女は、2度の流産後に生まれた長男のフランツ・ヨーゼフを溺愛し、帝王学を徹底的に学ばせました。  そして、ゾフィ−はマリアテレジア以来の大物君主として、長男のフランツ・ヨーゼフを演出するキャンペーンを行い、シェーンブルン宮殿も、マリアテレジアが宮殿建設の時に取り入れたロココ様式を、19世紀の半ばに蘇らせました。

この新ロココ様式の採用は、ハプスブルグ帝国に往年の輝きを、溺愛する長男に取り戻させるという象徴的な演出に他なりませんでした。


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ゾフィ−大公妃(1805-1872)


ゾフィ−は、フランツ・ヨーゼフの結婚相手に、バイエルン王室のヘレネを迎えようとし、見合いをさせましたが、フランツ・ヨーゼフは偶然に見合いの場に居合わせた彼女の妹、エリザベートに一目惚れしてしまいました。 そして、母親の反対を押し切り、エリザベートにプロポーズしました。  

エリザベートは、まだ16歳で、とにかく驚き、嬉しさも不安もありましたが、皇帝の申し込みとあれば、断ることはできず、エリザベートの運命は決まりました。


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オーストリア皇帝  フランツ・ヨーゼフ


この美の女神とまで称されたエリザベートは、オーストリアの人々からも熱狂的に迎えられ、輝ける女帝マリア・テレジアに匹敵する大物フランツ・ヨーゼフとの組み合わせにも、人々はハプスブルグ帝国の栄光を取り戻してくれることを、二人に期待したのでありました。


しかし、このエリザベートの人気が、ゾフィ−大公妃の嫉妬をかうことになり、自分の意思に反して溺愛する長男と結婚したエリザベートに対し、遺恨をはらすべく、ゾフィ−のエリザベートに対する執拗ないじめが始まりました。

そうでなくとも、次女という事もあり、王家の子女としては、あまりに自由な少女時代を過ごしてきたエリザベートは、伝統と格式を誇る名門ハプスブルグ家の、いかめしいしきたりに馴染むことは出来ませんでした。

この悩みを、夫であるフランツ・ヨーゼフに訴えても、子供の頃から徹底した帝王学の教育を受けてきた彼は軍人・官僚的な性格で、真剣に耳を傾けてくれる事はなく、彼はただもくもくと国政を処理して行くばかりでした。


また、エリザベート自身も、結婚式や祝典、挨拶、答礼で疲れ果てているなかで、その翌日から始まった姑のゾフィ−による、いじめに近い、手厳しい教育や干渉に、精神的にまいってきてしまいました。

当時のことをエリザベートは、 「私は牢獄で目を覚ました。 手には鎖が重く、憂いは日々に厚い。 自由よ、お前は私から奪われた」 と記し、このような日々のなかで
エリザベートは次第に生気を失ってゆきました。


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生気を失ってゆくエリザベート


そんな宮廷生活の中、エリザベートに続けて子供が誕生し、エリザベートは、子供たちに愛情の全てを注ぎ込みました。


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王女ギーセラとルドルフ皇太子


ところが、ゾフィ−の嫌がらせはさらに続き、未熟な嫁のエリザベートには、子供たちの教育を任せられないとし、二人の王女と皇太子ルドルフをエリザベートから取り上げてしまい、自分の手で育てようとしました。  実の母親であるエリザベートが、わが子に会えるのはわずか1日に1時間だけ、それも監視付きという状態でありました。

自分の唯一の生き甲斐で、自分の手で子供を育てたいと考えていたエリザベートにとっては、あまりにむごい仕打ちであり、やがて彼女は精神を蝕まれてゆくことになります。

そして、全てを奪われたエリザベートは、ウィーンを逃げ出すかのように、旅から旅への放浪生活を送るようになり、フランツ・ヨーゼフも妃のことを不憫に思い、無理やりに連れて帰らすことは出来ず、彼女の行動を半ば黙認せざるを得ませんでした。

1872年のゾフィ−皇太后は亡くなりますが、もうすでにズタズタにされた彼女の精神状態に、状況が変化することはありませんでした。




婚約時代に、花嫁修業として 「オーストリア帝国の歴史」 があり、その講師がハンガリー人の学者で、オーストリア帝国を礼賛しながらも、ハンガリーの歴史や苦悩について語り、共和制の良いところも説き、エリザベートはハンガリーびいきになり、共和制についても理解を示すようになりました。

何よりも、エリザベートはハンガリーの大草原の中で群れを成して、自由に駆け回る馬や、情熱的な国民性が気に入っていたのです。  

そして、彼女はハンガリー語を勉強し、ネイティブ並に使いこなし、エリザベートが皇帝とブダペストに行くときは、いつもハンガリーの民族衣装を身につけ、ハンガリー語で土地の人に語りかけました。


1866年にオーストリアがビスマルク率いるプロイセンに大敗した結果、ハンガリーに独立の気運が強まりますが、この時フランツ・ヨーゼフ皇帝を説得したのがエリザベートで、ハンガリーにも主権を与え、フランツ・ヨーゼフ皇帝がオーストリアとハンガリーの皇帝に就任する、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立したのは、1867年の事です。


こうして、国王は一人ですが、首都はウイーンとブダペスト、内閣は二つ、議会も二つ、ただ大蔵省、外務省、軍務省は共通で、双生児のようなオーストリア・ハンガリー二重帝国という国家が出来上がり、エリザベートの努力のおかげでオーストリア帝国はハンガリーの離反をくいとめることができました。 そして、1867年6月ブダペストで盛大な戴冠式が行われました。  これは、ハンガリー国民からも圧倒的な人気があったエリザベートだからこそ成し得た歴史的な事件であります。


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ハンガリー風の衣装を着て、戴冠式にのぞむエリザベート 1868年


エリザベートには、3人の娘と、1人の息子がいましたが、自分の手で育てることが出来たのは末の娘だけですが、息子のルドルフは母親の血をひき知的能力が高く、ドイツ語、チェコ語、ハンガリー語、フランス語を使いこなし、様々な分野でもその能力を発揮しました。  

しかしながら、成人した彼のリベラルな考えは、保守的な父親と亀裂を生じ、ついには深刻な親子の対立を招いてしまいました。  そして、皇太子ルドルフは、次第に追い詰められ、父であるフランツ・ヨーゼフ皇帝からは、後継者にふさわしくないとされてしまいました。


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エリザベートの1人息子  ルドルフ皇太子


折りしも、ルドルフはベルギーから迎えた皇太子妃との間もうまくゆかず、そのような状況の中で、皇太子ルドルフは1989年1月、17歳の男爵令嬢と雪深いウイーンの森の狩猟小屋マイヤーリンクでピストル自殺をとげました。  これにより、ハプスブルグ帝国のただ1人の後継者もいなくなった事を意味し、ハプスブルグ帝国に影をさす事件でもありました。


皇太子の自殺は、エリザベートに深い悲しみと絶望を与え、以後彼女は喪服を脱ぐことはありませんでした。


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喪服姿のエリザベート


そして、年齢とあまりに悲しい経験により、美貌の衰えを感じ始めたエリザベートは、年を取るにつれて顔を扇で隠すようになり、それが彼女の立ち居振る舞いを表す姿として伝説となりました。


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扇で顔を隠すエリザベート


そして、エリザベートの周囲では、姉弟のように仲の良かったバイエルンのルードウイッヒ二世の溺死、妹ゾフィの焼死、メキシコ皇帝となった義弟マキシミリアンの銃殺刑と
不幸が立て続けに襲い掛かり、エリザベート自身にも死の影が忍び寄り、漂泊の旅に拍車がかかっていきました。


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暗殺直前のエリザベート(左側の女性)



そして、運命の日はやってきました。 1898年9月10日、旅の途中、スイスのジュネーブのレマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニの手によって殺害され、その生涯を閉じました。

彼女が最後に泊まっていたホテルは、ジュネーブにあるレマン湖沿いのボー・リバージュ(Beau Rivage)で、現在も営業しております。  殺害された場所は、おそらくこの桟橋だと思われますますが、最期はこのホテルで息を引き取りました。


エリザベート享年61歳



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Beau Rivage Hotel            殺害された場所の桟橋



ルドルフ皇太子亡き後、新たに皇位継承者になったフランツ・フェルディナント大公の1914年サラエボでの暗殺によって、第一次世界大戦が始まり、1916年皇帝フランツ・ヨゼフの死後まもなく、1918年ハプスブルグ帝国は滅亡。



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