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2008/5/10

フリーメーソン-95  アドルフ・ヒトラー  フリーメーソン
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Adolf Hitler (1889-1945)


1889年オーストリアの田舎町ブラウナウで下級関税官吏の子として生まれ、実科学校中退後ウィーンに出て画家になることをめざしますが,美術学校入学に失敗して放浪生活。

1913年ミュンヘンに移住し、第一次世界大戦勃発とともに志願兵として戦場に赴き、伝令などとして活躍し、大戦終了後はミュンヘンにもどって国防軍の情報宣伝係に雇われますが、1919年に小さな右翼民族主義政党のドイツ労働者党(のちのナチス)に入党しました。



フリーメーソン-77  第一次世界大戦 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/670.html

そして、1919年10月16日にミュンヘンのビアホール 「ホフブロイハウス」 でドイツ労働党(DAP)の大衆集会が開かれ、ヒトラーが30分も演説すると、集まった百人ほどのの聴衆はたちまち彼の演説のとりこになり、そして多額の寄付を集めることができました。

こうして、ヒトラーは、宣伝担当の委員に抜擢されました。


HOFBAEUHAUS MUENCHEN (ホフブロイハウス ミュンヘン)
http://www.hofbraeuhaus.de/


ドイツ労働党は1920年2月14日に、ミュンヘンのビアホールにで開かれた党大会に2000人を集め、綱領を発表し、党名を国家社会主義労働党(NSDAP:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)に改称しましたが、このNSDAPを通称ナチスと呼びます。 

ヒトラーは、得意の弁舌を武器に、党員獲得に大きな役割を果たし、その指導力も評価され、1921年7月29日に開かれた幹部会で、ナチスの党首となりました。


しかしながら、1923年11月8-9日に、第一次世界大戦中のタンネンベルクの戦いの英雄エーリッヒ・ルーデンドルフを担いで、バイエルン王国の復活を目論み、ベルリン共和国政府打倒のクーデタを起こしますが(ミュンヘン一揆)、失敗に終わり、逮捕されて5年の禁固刑を宣告されてしまいます。 

この獄中で、ヒトラーが執筆したのが、 「我が闘争(Mein Kamp)」 で、

ミュンヘン一揆は、ミュンヘンのビアホール 「ビュルガーブロイケラー」 で11月8日に発生したものです。


このヒトラーの、バイエルン地方へのこだわり、反ユダヤ主義は、ドイツ民族主義のワグナーに影響されたものでありますが、

ただワグナーの場合は、ユダヤ人天才音楽家のメンデルスゾーンへの嫉妬からの反ユダヤ主義であったのに対して、

ヒトラーの場合はドイツに天文学的な賠償金を課した、イギリスやフランスを裏で操るユダヤ系国際金融財閥ロスチャイルドへの反発、またキリスト教vsユダヤ教、人種差別的な側面も持つ、複雑な反ユダヤ主義であります。


フリーメーソン-94  リヒャルト・ワグナー
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/688.html
フリーメーソン-93  真夏の夜の夢 
http://wave.ap.teacup.com/applet/renaissancejapan/archive?b=150
ノイシュヴァンシュタイン城
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/53.html


5年の禁固刑を言い渡されたヒトラーですが、彼が逮捕された同じ年の1924年にナチス党が国会選挙で大敗し、ミュンヘン当局は安堵感から、禁固刑が宣言されてから僅か9ケ月で釈放しています。 ヒトラー35歳。

1929年10月24日、米国ニューヨーク市場(ウォール街)の株の大暴落に端を発した世界大恐慌が起こり、復興の兆しが見えてきた敗戦国ドイツは、その影響をより大きく受けました。 そうして、1932年のドイツの失業者は610万人にも増えて、ワイマール体制を徹底批判するナチス党への支持が増えてゆきました。

1933年、ヒトラー44歳の時、ヒンデンブルグ大統領により、ワイマール共和国の首相に任命し、ヒトラーの独裁政権が始まります。  この1933年から、ヒトラーが第二次世界大戦で自殺を遂げるまでの、12年間のナチス支配下のドイツの事を第三帝国と呼びます。


Das Dritte Reich ( 第三帝国 )
http://www.youtube.com/watch?v=_gQn8xeP_K4


この第三帝国という言葉は、1920年代に、メラー・ファン・デン・ブルックが本の表題として用い、ハプスブルグ家の神聖ローマ帝国、ビスマルク帝国に次ぐ、民族主義に基づく
第三帝国の到来を予言したことから、政治スローガンとして広く使用されるようになりました。  しかしながら、正確にはハプスブルグ家の神聖ローマ帝国は、その中心がオーストリア、ドイツバイエルン地方であることに間違いありませんが、多民族国家であります。


フリーメーソン-86  ハプスブルグ帝国の崩壊
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/679.html
エリザベート
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/680.html


1933年7月20日に、ヴァチカン(ローマカトリック教会)と政教協約(コンコルダート)を結び、ヴァチカンはナチスを支援するようになります。


ヴァチカン市国 Citta del Vaticano  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1.html


ナチス一党支配下の第三帝国では、ナチス党幹部が国家機構を独占し、反ナチス派は捕えられ、強制収容所に送られたり、殺害されました。  

ナチス独裁体制を維持するために反対勢力弾圧機関として秘密国家警察(Geheime Staatpolize)、通称ゲシュタポ(Gestapo)が創設され、突撃隊(SA)や親衛隊(SS)と協力して、ユダヤ人やナチ体制に批判的な知識人などに対し、拷問やテロあるいは強制収容所送りなどによる激しい弾圧を加えていきました。


ヒトラーが大衆を扇動できたのは、第一次世界大戦で敗戦したドイツ国民の経済的困窮があり、詐欺師まがいの巧みな弁舌でそれをうまく利用した事と、映画などのメディアをうまく利用した事があります。

特に、ベルリンオリンピックの記録映画 「民族の祭典」、「美の祭典」 では、当時多くの国で開発段階であったテレビジョン中継をオリンピックで初めて行い、ヒトラー自身が開会式の宣伝を行い、開会式に詰め掛けた10万人の観客が右手を揚げて 「ハイル・ヒトラー」 と唱和、

また古代オリンピックの発祥地であるオリンピアで五輪の火を採火し、たいまつで開会式のメインスタジアムまで運ぶ「聖火リレー」も初めて実施されました。 聖火リレーのコースは、ギリシャのオリンピアを出発して、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経由し、ドイツ国内へ運ばれるもので、今日のメディアによるプロパガンダの基本は、全てここにあると言っても過言ではありません。

1939年9月のポーランド侵攻によって、第二次世界大戦の勃発を招き、ヨーロッパを広範な戦禍に巻き込むとともに、ドイツを敗北に導いたヒトラーですが、1945年4月30日ベルリンの地下壕で自殺を遂げました。

                                       ヒトラー 享年56歳 







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