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2008/5/22

フリーメーソン-100  川島芳子  フリーメーソン
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川島芳子(本名:愛新覚羅 顕シ 別名:金璧輝 1907-1948)
http://www.youtube.com/watch?v=5wPVj6U1at4&feature=related

李香蘭(山口淑子)と同じく、時代と運命に翻弄された、同じ 「よしこ」 の名を持つ、もう1人の女性がいました。
 

フリーメーソン-99  李香蘭
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/693.html


彼女は、清の王女に生まれながら、父、粛親王と親交のあった川島浪速という日本人に預けられ、東京や松本で育ちます。  美しくて利発な彼女は、満州では、ある時は軍服を着て司令官となり、「東洋のジャンヌダルク」と称され、ある時は清の王女、またあるときはダンスホールやクラブのホステスになりすまし、スパイ活動を行いました。  世界の大事件の裏に、常に彼女の暗躍する姿があったのです。  そして、日本の敗戦と共に、中国国民党軍に逮捕され、漢奸(中国語で国賊、売国奴の意味)として、銃殺刑に処され、激動の満州に露と消えてゆきました。
 


フリーメーソンが中国に進出した最初は、アヘン戦争後に勝利したイギリスが1842年に香港を植民地とした2年後の1844年に、イングランド系フリーメーソンである「ロイヤル・サセックス結社」第501号が香港に開設されたのが始まりです。

その後、天京(南京)を占領していた洪秀全を首領とする「太平天国」軍が、上海を攻撃しようとした動きがありましたが、これに対抗し 「太平天国の乱」は常勝将軍のフリーメーソンであるゴルドンによって鎮圧され、これを機に上海にはフリーメーソンが激増してゆきます。

第一次世界大戦までは、フリーメーソンの勢力図は、イギリス系が強く、中国を南北に2分しており、華北・華中・満州は、上海・天津・北京を中心とした「イングランド系北支地区大結社」が担当し、上海に本部を構えましたが、麻薬王として有名な上海のサッスーン財閥を創設したD・E・サッスーンがフリーメーソン首脳の一人であります。


フリーメーソン-29  サッスーン財閥
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/621.html

 
中国の南部、華南を支配していたのは「イングランド系華南地区大結社」で香港に本部があり、アモイ・満州・広東・スワトウにも結社を持っていました。

第一次世界大戦後に、イギリスの海外植民地支配の力が弱まり、アメリカが台頭し、中国におけるアメリカ系フリーメーソンの勢力が強くなってゆき、当時アメリカは、満州方面に注目しており、中国大陸への進出を考えており、同時に北中国でのフリーメーソン組織も活発化してゆきました。

1911年の辛亥革命によって、事実上、清王朝は滅亡し、中国の次期政府を担ったのは、蒋介石の率いる国民政府でありましたが、1928年頃の中国の力関係は微妙なバランスのもとに成り立っており、南京に拠点を持つ蒋介石の国民党と、毛沢東の率いる共産党、華北の軍閥のドンとも言える、張作霖(ちょうさくりん)の3つの勢力が競い合っていました。

そして、その3つの勢力の背後では、外国勢力が操っており、国民党を欧米が、生まれたばかりの共産党をソビエト政権が、張作霖を日本が後押ししていました。  日本にとって、張作霖を援助することは、満州、華北の地盤固めに役立っており、張作霖を牽制役として国民党と戦わせている以上、張作霖は日本の力に頼らざるを得ず、中国は分裂したままで強固になることはなかったからです。

しかしながら、張作霖は次第に反日的な態度を取るようになり、1928年には、ついに国民党との戦いにも負けて、満州に逃れて来る情勢になってしまいましたが、戦火を満州に飛び火させたくない関東軍は、満州に入って来る直前に張作霖を列車ごと爆殺してしまおうと考え、張作霖は日本軍の手で始末されました。

フリーメーソン側から考えると、前述したように、アメリカの勢力が北中国のへの進出が盛んになった頃であります。  先ず1916年に北京でマサチューセッツ系「インターナショナル結社」が発足、続いて大連の「大連結社」、天津の「カレドニア結社」、奉天の「ハイクス記念結社」、ハルピンの「スンガリー結社」、また「パゴダ結社」は 張作霖と長男の張学良を加盟させ、「反日親米」を謀らせた事で有名であります。

ともあれ、関東軍は1931年に、満州鉄道を自ら爆破し、それをすべて中国軍の仕業とし一方的に攻撃を開始しました。   そして、5か月も経たぬうちに黒龍江(こくりゅうこう)、吉林(きつりん)、遼寧(りょうねい)の三省を支配下に置き、満州国を建設する事になります。

さらに、1932年1月、上海で日本人僧侶が中国人に殺害されるという事件があり(上海事変)、日中間の緊張は高まり、やがて日中両軍の軍事衝突に発展しました。

1934年、中国側のフリーメーソンの協力を得て、「国際ユダヤ財閥会議」がロンドンで開かれ、「国家最高経済顧問」であるリースロス博士(フリーメーソン会員のユダヤ人)等はそこで、中国経済改革の為の経済政策を決めました。

これは、上海を基点とする中国横断鉄道計画、沿線各地の開発など、中国利権を求めて イギリスのサッスーン財閥、フランスのオットー・ウルフ財閥、アメリカのユダヤ系各財閥が参加する事が決定し、日本にも参加を求める為、リースロス博士を団長とする経済使節団が派遣されましたが、国際感覚の無い日本政府は一蹴してしまいました。

それに対して、蒋介石はリースロス案に直ちに乗り、日本とイギリス・アメリカの関係は、蒋介石に分断されてしまったのです。


日英同盟から学ぶ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/146.html


1937年、満州だけでは飽き足らない関東軍は、中国大陸に侵略を開始し、北京郊外の蘆溝橋(ろこうきょう)で数発の銃声をきかっけに、日中戦争が始まりました。  近代装備した日本軍は、すぐに打ち負かせることができると考えていましたが、犬猿の仲と思われた共産党と国民党が仲の悪さを一時棚上げし、徒党を組んで日本に立ち向かって来て、泥沼の長期戦となります。  この背景には、前述のフリーメーソンつながりもあり、世界の権力構造を知らない日本の政治家は、アメリカとイギリスをも敵に回してしまったのです。

そして、連合軍に包囲され、資源を絶たれた日本は、武力を使って南方の資源を手に入れるしか生きる道がありませんでした。  それに追い討ちをかけるように、アメリカからハルノート(すべてを満州事変以前の状態に戻す、最終通達)が出され、日本としては受け入れる事はできないものでした。 アメリカは日本を挑発し、先に攻撃させ、戦争の口実をつくる罠に、日本はまんまと嵌ってしまったのでありました。



川島芳子が生きた時代は、このような激動の時代でありました。 彼女は1906年に北京で生まれ、あのラストエンペラーの愛新覚羅のいとこにあたる、清王朝のゆかりの名門皇族、粛親王(しゅくしんのう)の娘でありました。 芳子の本名は、愛新覚羅 顕シ、別名は金壁輝といいます。  

粛親王の財産は莫大なものでしたが、清王朝が滅亡すると、情勢はがらりと変わり、国民政府は、清王朝の財産をことごとく没収したうえ、歴代皇帝の墳墓まであばき財宝を略奪し尽くしました。  恐怖を感じた粛親王は、川島浪速(かわしまなにわ)らの手引きによって日本の勢力下にあった旅順へ逃れ、そこで、富国強兵策で世界に頭角をあらわしていた日本の支援のもとに清朝の再興を図ることにしたのでありました。

一方の日本も、満州に傀儡政権を打ち立て、大陸進出への野望を抱いていたので、ここに、両者の利害関係は一致したのです。

粛親王は、通訳であり日本軍の窓口的存在であった川島浪速に自分の14番目の王女を養女として与え、より緊密な関係を築こうとし、まだ6才だった彼女は、日本に渡ることとなり、養子となった彼女は、川島芳子と日本名を名乗ることになります。

川島家は裕福で、広大な屋敷に桜の木が200本以上あったとも言われております。 芳子は、東京赤羽の川島邸から、良家の子弟が多い豊島師範付属小学校に通い、小学校が終わると跡見高女に進んだものの、まもなく信州の松本高女に転校することになりました。

これは、浪速が支援していた満蒙独立運動がうまくいかなくなったためで、巨額の資金が回収出来ず、赤羽の邸宅を借金の肩代わりに取られてしまったためであります。

そして、川島は故郷の信州に引越し、芳子も転校しましたが、旅順にいる彼女の実の父、粛親王が死去し、彼女は、葬儀のために長期休学することとなり、松本高女から退学を言い渡されました。 以後、芳子は学校には通わず、家庭で川島浪速に、独自の教育を受けるようになりました。

ところが、17歳の時に、突然髪を切り、男のように短くしてしまい、「永遠に女を清算した」と宣言、この背景には養父に関係を迫られたからという噂もありますが、本当の事は
誰にも分かりません。

髪を切って男装した芳子は、亡き粛親王の財産管理のために、再び、大連におもむくことになりました。 そこで、芳子は蒙古の、幼なじみ王族カンジュルジャップと結婚しますが、姑との関係、また蒙古の封建的なしきたりにうんざりする毎日を送っていました。

そんな時に、満州事変が勃発し、満州国の建国宣言がなされ、満蒙独立という大きな志を持つ芳子の心境が、大きく揺り動きました。 そして、再び男に戻ることを決意し、夫の目を盗み、日本行きの船に飛び乗ると、東京の兄のもとに転がり込み、彼女の結婚生活は3年で終止符が打たれました。

彼女は、関東軍の陸軍少佐、田中隆吉との出会いで、大きく運命が変えられてゆきます。 田中は、情報部門所属の将校で、彼女と深い関係になってゆくのに、時間はかかりませんでした。 

こうして芳子は、田中を上司として、関東軍の女諜報員として活動することになり、拳銃の扱い方から変装術、暗号や機密書類の入手方法まで、様々なスパイ技術を教え込まれていきました。  情報部としては、清朝の王女でありながら、日本語、中国語を使い分け、英語もしゃべれる芳子は利用価値の高い存在である一方、芳子の方も、満州人のためになることなら何でも協力するつもりで、かくして、水を得た魚のような彼女の活躍が始まるのであります。

満州事変から、世界の視線をそらすために、上海事件を起こしたのは彼女の功績で、経済基盤の要である阿片の生産地の熱河を併合するときも、彼女は、軍隊を指揮し熱河省に進軍し、関東軍がそれを後押しする形になりました。

もと満州人の王女が先導するのですから、否が応にも、満州人の血が騒ぎ立てたというのは言うまでもなく、乗馬用のブーツを履きカーキ色の将校姿に身を固めた芳子が、馬に乗ってサーベルを片手に軍隊を率いる様は、まさしく東洋のジャンヌ・ダルクを彷佛とさせるものでありました。

彼女としては、満蒙独立を、いつも夢みていたのでした。

しかしながら、日本の敗戦 とともに、彼女は売国奴として、蒋介石の国民政府に捕えられてしまい、日本軍の手先となり、同胞を裏切ったという罪で、芳子は、裁判にかけられ、2年以上の獄中生活を余儀なくされました。


裁判では、裁判長をまるで子供扱いし、自分のほうが役者が1枚も2枚も上であることを、多くの人の前で見せつけたと語られています。

しかしながら、1947年(昭和22)華北高等法院は、10月15日と16日の2日間の公判で10月22日には芳子に死刑の判決を下しました。

これを受けて、11月に長野県信濃尻村の村長と村会議長の連盟で「中華民国北平法院長」宛てに嘆願書が送られており、またかつての家庭教師であった、本多まつ江が中心となって松本高女の同級生や、各界の関係者3000名の署名を集めて嘆願書を送りました。

どちらも 「川島浪速の養女である芳子は日本人であり、漢奸には該当しない」 と抗議したものであります。


しかし、多くの彼女を愛する人々からの想いは届かず、1948年3月25日午前6時、北京の第一監獄で、芳子は銃殺され、男装の麗人は、こうして満州の露と消えていきました。                                  川島芳子、享年41歳。


芳子が銃殺された遺骸のポケットには、女学生の頃から口ずさんでいた詩を書いた紙切れがあり、書かれていたのは、


「 家あれど帰り得ず、涙あれども語り得ず、法あれども正しさを得ず、冤(エンー恨み)あれども誰に訴えん 」



支那の夜 (李香蘭)
http://www.youtube.com/watch?v=ahUr1fF7ISo&feature=related

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