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2008/7/5

フリーメーソン-120  日本とフリーメーソン-4  フリーメーソン

1853年(嘉永6年)7月8日、旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて、東インド艦隊司令長官で、筋金入りのフリーメーソンである、マシュー・ペリーが、フィルモア大統領の親書を携え、浦賀沖に来航し、開港を迫りました。


フリーメーソン-27  黒船襲来
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/619.html


彼が所属していたロッジは、ニューヨークの 「ホーランドNo.8」 であります。  フリーメーソンにとっては、定期的な儀式は欠かすことが出来ないため、英米の軍艦にはロッジがつくられており、いうまでもなく、黒船にもロッジがありました。



日本に開国を迫ったアメリカの当時の状況は、次のようなものでした。 

東海岸の13州をもってイギリスから1783年に独立し、原住民のインディアンと戦いながら、メキシコとの米墨戦争(1846-1848)を勝ち抜き、西海岸のカリフォルニアに至り、

ジョン・L・サリバンが 「併合論」 に書いてあるように、「北米大陸での膨張は自由の拡大という神に与えられた使命である」 と、国土の拡大をアメリカ人は「神の摂理」と理解し、それを明白な宿命(Manifest Destiny)と表現し、熱狂的に西部開拓を行い、その延長上に太平洋の彼方の日本があったのです。

科学技術の発展により、工場は夜遅くまで操業していましたが、まだ石油が発見される前であったので、灯りは鯨油を燃やしてとっていました。  その鯨油を確保するために、捕鯨は盛んで、1846年の統計では736隻出漁し、日本近海でも約300隻が操業していました。

また、当時はイギリスがスエズを陸路で通過し、インド、シンガポール、香港、上海までの航路を開いており、日本まで支配下におかれると、アメリカは太平洋進出の足場を失うと考えていたのです。

ペリー率いる日本遠征艦隊には、サスケハナ号(2450トン)とポーハタン号(2415トン)が含まれていましたが、当時2000トンを超す蒸気軍艦はアメリカだけが保有していたもので、何故喜望峰を回り、インド洋からシンガポール、上海に至るルートを選んだのかと言うと、イギリスに対する軍事的パフォーマンスの目的もあったわけです。

上海を出航した艦隊は、沖縄に立ち寄り、小笠原諸島に向かいましたが、ペリーは本国に 「イギリスの極東における勢力に対抗するには、沖縄にアメリカ海軍基地を建設すべきである」 と書き送っています。  

すなわち、日本にやってきたのは、アメリカ大陸で西部開拓をやってきた勢いで、そのまま太平洋を渡ったところに日本があった。  また、それは、ジョン・L・サリバンが 「併合論」に書いてあるような宗教的思想があった事と、イギリスの極東における勢力に対抗する目的がありました。  言うまでも無く、阿片でぼろ儲けをしているイギリスを見て、アメリカは日本だけが目的ではなく、中国を植民地化する事を狙っていたのであります。

日本は鎖国(現実は徳川の独占貿易)をしていた為、民間人で英語ができる者がいませんでしたが、ペリーが来航する2年前という、絶妙のタイミングで、ジョン万次郎が日本に帰国し、幕府の旗本となり、アメリカとの交渉の通訳として活躍することになりました。

日米修好通商条約の批准書を交わすために、咸臨丸に乗ってサンフランシスコに行き、通訳として活躍したのも、ジョン万次郎です。


中濱万次郎(ジョン万次郎)は、高知県土佐清水市の中浜に、貧しい漁師の子として生まれ、14歳の時に漁で遭難し、アメリカの捕鯨船に助けられて、そのまま船長にアメリカに連れて行かれ、育てられました。 

そして、アメリカに滞在しているわずかな期間に、フリーメーソンのペリー家、ルーズベルト大統領の祖父にあたるワレン・デラノの名門デラノ家とも人脈を築いています。 ただの漂流した日本人漁師の少年が、この若さでこれだけの大物たちと接触できるものでしょうか。

当時は、フリーメーソンの新世界秩序で、世界をワンワールド化しようとする動きがあり、アメリカでは西部開拓を進めていた時代で、さらにその先の日本に、イギリスに先んじて、進出しようとするアメリカの戦略があり、日本語のできる諜報部員を育成する必要があると、フリーメーソンであるペリー提督も日記に書いています

何より、不思議なのが、厳しい身分制度のあった徳川封建時代に、貧しい漁師の子供が、士農工商の身分制度を飛び越え、旗本となり、徳川と交渉できるものでしょうか。

高知県足摺岬にある、ジョン万次郎の銅像を見て御覧なさい。 銅像の左手に持つ、フリーメーソンのシンボルである、直角定規とコンパスが、全てを物語っていると思います。

ジョン万次郎は、アメリカの諜報部員として教育され、フリーメーソンとして、日本に送り返された、彼らのエージェントであった事は明らかだと思います。


フリーメーソン-31  ジョン万次郎
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/623.html


記録に残る限りでは、日本人でフリーメーソンとなったのは、明治初期に西洋哲学を日本に紹介した西周(にしあまね)と、法律制定に尽力した津田真道(つだまみち)であります。 

彼らは、ともに江戸幕府の洋学教育機関であった、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に勤務する蘭学者で、(蕃書調所は、後に開成所、さらに東京大学文学部と理学部になっています)

1862年に幕府の指示によって、西洋の政治・法律・経済を研究するためにオランダに留学しました。   その指導教官がライデンの「ラ・ヴェルテュ・ロッジ・ナンバー7」に属するフリーメーソンで、

1864年10月20日、彼は指導生であった西周をこのロッジに紹介し、その日に35歳の西周は、「徒弟」「職人」として、フリーメーソンになる事を承認され、日本人では初めてのフリーメーソンとなりました。  津田真道も、1ケ月後にフリーメーソンとなっている事が記録に残されています。


フリーメーソン-26  西周
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/618.html


日本にフリーメーソンが上陸するのは、西周と津田真道がオランダでフリーメーソンに入会したのと同じ1864年であります。 

1842年のアヘン戦争により、英国領となった香港にフリーメーソンの極東ロッジが創立され、アジア進出の拠点になりました。

その香港から横浜の居留地警備の為に派遣されたのが、英国陸軍第20連帯の分遣隊で、この連隊には軍人結社「スフィンクス」があり、連隊が駐屯した横浜に、アイルランド系の「スフィンクス・ロッジ」が開設されました。  このロッジは、軍隊の中で組織される軍事ロッジで、連隊の移動とともに、ロッジも移動する性質のものです。 

イギリスのグランド・ロッジ傘下の常設ロッジが最初に組織されたのも、同じ横浜でありました。  1865年にその準備会が開かれ、6月26日に 「横浜ロッジNo.1092」 として正式に発足。  しかしながら、当時フリーメーソンの日本ロッジに、日本人が加入することは許されず、フリーメーソンは欧米人に限られていました。

フリーメーソンが日本人に門戸を開放したのは、第二次世界大戦後の、1950年の事でフリーメーソンである占領軍総司令官マッカーサーの指示を得て、佐藤尚武(さとうなおたけ)、植原悦二郎(うえはらえつじろう)など5人の国会議員がフリーメーソンとなりました。  この事は、「ニッポン・タイムズ」1950年1月8日号の記事に記されています。


明治維新後の日本の進路に大きな影響を与えたのは、西洋文明ですが、それは17世紀以前の西洋文明ではなく、17〜18世紀に起こった、少し宗教から距離を置き、自由・平等・博愛の精神で、理性と科学技術を重視した啓蒙思想から産み落とされた、フリーメーソン思想的な近代西洋文明なのであります。


ペリーの恫喝外交により、「日米和親条約」が結ばれたのが1854年3月3日、これを突破口に、アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ロシアは次々と幕府に不平等な通商条約を突きつけ、1858年に「安政の5ケ国条約」と呼ばれる友好通商条約が締結されました。

この諸条約は、勅許の無いままに大老の井伊直弼によって調印されたために、仮条約となされて、国内では尊王攘夷運動が興り、安政の大獄・桜田門外の変といった国内政争を引き起こす事になりました。

国内では、この開国騒動で 「南紀派」 と呼ばれる井伊直弼率いる保守派と、「一橋派」 と呼ばれる改革派が、激しく争いました。

「南紀派」 は、開国して外圧を取り除き、同時に貿易で儲けて幕藩体制を強化しようと考えたのに対して、 「一橋派」 は、鎖国を続けたまま、無能な幕府役人を排除し、全国から有能な人材を集めて、外国に負けない、強力な中央集権国家を形成しようというものでした。

「一橋派」 に反応したのが、地方の諸藩で、いままで徳川に抑え込まれていた不満が爆発し、変革を強く求めるようになってゆきました。  西南諸藩は、外国貿易に活路を開きたくても幕府から自由取引が許されていなかったので、これまた大きな不満を持っていました。

薩摩藩は、密かにイギリスに貿易取引を試みるも、イギリスは幕府との条約をたてに、あっさりとこれを断ってしまいました。

可愛さ余って憎さ百倍、ここに薩摩藩からは幕府と外国が一体に見え、朱子学がはぐくんできた民族主義的な武士道とあっさり馴染み、「攘夷」の一大勢力が形作られることになりました。

「何としても幕府と外国を倒さねばならない」

この動きに、京都の公家勢力が同調し、特に大の外国嫌いの孝明天皇は、「野蛮な外国など打ち払え」 という攘夷思想の持ち主であったことからも、全国の攘夷派勢力と合体してゆくことになります。  ここに公家と攘夷派が結びつき、 「尊皇攘夷派」 が誕生したのです。

欧米列強に対する徳川幕府の弱腰外交に、 「尊皇攘夷」 は、ますます激しいものとなってゆき、攘夷テロの嵐が吹き荒れ、あちことで外国人は狙われました。

1589年、ロシア海軍の士官と水兵が横浜で殺害され、翌年同じ横浜で2人のオランダ人が尊皇攘夷の侍に斬り殺されました。

これらの無差別テロに激怒した外国人たちは、示威行為としての盛大な葬儀を敢行し、軍服の上に、フリーメーソンの正装であるエプロンと白い手袋をつけ、ゆっくりと街中を行進したのです。  

楽隊が奏でるのは、モーツアルト作曲の 「フリーメーソンのための葬送曲」。


モーツァルト : フリーメーソンのための音楽集
http://www.hmv.co.jp/product/detail/885902


当時の日本人は、見たことも無い、あまりの異様さに、度肝を抜かれてしまいました。

この様子は、1881年の香港紙 「Chater-Cosmo Transactions Vol.1.3」 に、 「日本で最初のフリーメーソンの葬儀」 というタイトルで記載されています。

いずれにせよ、ここに日本人は初めて、列強各国からの使者だけでなく、列強各国をつなぐ、フリーメーソンという組織が活動していることを知り、フリーメーソンも怒りのあまり、公の場に、尻尾をみせてしまったのです。


フリーメーソン-35  尊皇攘夷
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/627.html


この幕末の動乱期、筋金入りのフリーメーソンのペリー提督の黒船襲来後、初代駐日公使タウンゼント・ハリスと井伊直弼により1858年7月29日に日米修好通商条約が締結され、この条約締結を機に、尊皇攘夷が起こり、日本は明治維新へと突き進むことになりますが、

ここに時代に翻弄され、悲しい運命を辿った一人の日本人女性がいました。 慣れない異国の地、日本で病気を患った、初代駐日公使タウンゼント・ハリスの身の世話を命じられた、斉藤きちのお話であります。


フリーメーソン-47  唐人お吉
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/639.html







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