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2008/7/5

フリーメーソン-121  日本とフリーメーソン-5  フリーメーソン

幕府の大老井伊直弼・老中間部詮勝らが、その施策「日米修好通商条約への調印および徳川家茂の将軍職継承」への反対派を大弾圧した事件を 「安政の大獄」 といいますが、1858-1859年に起こった事件で、「安政の大獄」は、井伊直弼が1860年3月の桜田門外の変で暗殺された事により収束します。  

ちょうどその頃、スコットランド生まれの一青年トーマス・グラバーが、長崎にやってきました。  グラバーは、19歳の時にビジネスチャンスを求めて上海に行き、ジャーディン・マセソン商会に入社、そして幕末の動乱の日本に興味を持ち、1859年(安政6年)9月19日に長崎に到着、21歳の時でありました。

このグラバーは、スコットランド系のフリーメーソンでありましたが、この若い青年が、日本を大きく変えて行く事になります。



フリーメーソン-33  グラバーの誕生
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/625.html
フリーメーソン-34  グラバー来日 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/626.html
フリーメーソン-38  グラバー商会設立 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/630.html
フリーメーソン-39  初期のグラバー商会 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/631.html
フリーメーソン-40  艦船の輸入
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/632.html
フリーメーソン-41  グラバーの艦船ビジネス-1
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/633.html
フリーメーソン-42  グラバーの艦船ビジネス-2
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/634.html
フリーメーソン-43  グラバー艦船ビジネス-3 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/635.html
フリーメーソン-44  アイアンデューク号
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フリーメーソン-45  グラバー高島炭鉱 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/637.html
フリーメーソン-46  グラバー園内 フリーメーソン石柱
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/638.html


グラバーとともに、幕末動乱期から明治維新を見てきた男が、ヴェネチア生まれの写真家フェリックス・ベアトで、彼もまたフリーメーソンでありました。  今日、我々が意識せずに見る、幕末から明治にかけての重要な写真のほとんどが、ベアトが撮った写真であります。


フリーメーソン-36  フェリックス・ベアト  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/628.html


また、明治維新に大きな役割を果たしたイギリスの外交官が、アーネスト・メーソン・サトウで、ミドルネームのメーソンが表しているように、正真正銘の石工の家系です。 彼はイギリスの外交官で、駐日領総事ラザフォード・オールコックや駐日公使ハリー・パークスの下で活躍し、明治維新に大きな貢献をした人物です。

それは、22歳のサトウが「ジャパンタイムズ」に書いた「English Policy(英国策論)」に、 「徳川幕府を倒し、天皇と大名連合体が日本を支配しなければならない」 とあり、徳川が約束した兵庫開港の期日が遅れるようなことがあれば、 「イギリス政府は強制と流血に訴えると」 したもので、この期日が2年後の1868年元旦であり、明治維新の年でした。

この「英国策論」の翻訳が出回り、徳川についていた大名たちは浮き足立ち、維新勢力は勢いづき、明治維新という革命は成し遂げられました。


フリーメーソン-37  アーネスト・サトウ  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/629.html


アメリカの南北戦争が終わり、在庫となった兵器が、上海市場に流れ込み、これをロスチャイルドと縁戚関係にあるジャーディン・マセソン商会が仕切っており、グラバーはその代理店となり、長崎でビジネスを始めました。  グラバー商会が設立された初期の頃は、お茶の精製ビジネスを営んでいましたが、戦艦一隻ビジネスしたときの販売額や利益の大きさ、また客層が大物である事も含めて、グラバーは兵器ビジネスにのめり込んでいくようになり、政治にも興味を持ち始めました。


フリーメーソン-28  南北戦争と明治維新
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/620.html  


また、日本の幕末期には、ヨーロッパではクリミア戦争があり、水力用機械を製造していたアームストロング社が、ロシアとのクリミア戦争を機に兵器製造に転換し、戊辰戦争でも活躍したアームストロング砲を開発したものの、クリミア戦争は終結し、1860年以降の軍事費の削減で、政府からの注文も減少し経営難となり、1863年に事業の建て直しを図り、海外市場向けの兵器製造に転換したばかりの状況で、戦争男爵ロスチャイルドやジャーディン・マセソン社、イギリス政府とつるんで、日本に内乱を引き起こし、一儲けしようとしていたのです。 このアームストロング社は、ロスチャイルド系の兵器会社です。

イギリス政府の方針が、徳川幕府に対し敵意をむき出しにしていた事は、外交官のアーネストサトウの行動や、公式な外交文書からも明らかで、徳川幕府を倒す事であった事は事実です。 しかしながら、イギリスがわざわざ日本にやって来て、徳川に敵意をむき出しにすること自体がおかしいのであって、これは中国の次に、日本を植民地化するために、傀儡政権(薩長の維新軍)を樹立させようとしていたとしか思えません。

また、尊皇攘夷で、外国人を成敗することを叫んでいたはずの、薩長の維新軍が明治維新と共に、イギリスに尻尾をふっている事実からも、明治政府はイギリスの傀儡政府であったと言えると思います。

長州ファイブがロンドンに留学していた頃、長州では攘夷が真っ盛りであり、長州ファイブも日本国内では 「 攘夷! 」 と叫んでいましたが、現実はイギリスのジャーディン・マセソン商会やグラバーに買収され、イギリスのエージェントであったのです。

これは適当に言っているのではありません。 英国政府のクラレンド外相がパークスに送った文書に、薩長の維新の志士たちの事を 「 エージェント 」 と呼んでいる記録があるのです。  そこには、 「 エージェントの存在を秘密にしろ 」 とあり、

別の文書で、1866年4月26日付けでハモンド外務次官からパークスに宛てた文書には、

「 日本において、体制の変化が起きるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない 」   と書かれた記録も残っています。

すなわち、明治維新の工作は、日本人に気づかれないよう、あくまでも秘密裏に行えと、指示しているのです。


フリーメーソン-54  長州ファイブ  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/646.html
フリーメーソン-55  メーソンだらけの明治維新
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/647.html
フリーメーソン-59  戊辰戦争
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/651.html



また、イギリスの外交官アーネストサトウは、「ジャパンタイムズ」に書いた「English Policy(英国策論)」に、 「徳川幕府を倒し、天皇と大名連合体が日本を支配しなければならない」 とあり、徳川が約束した兵庫開港の期日が遅れるようなことがあれば、 「イギリス政府は強制と流血に訴えると」 したもので、この期日が2年後の1868年元旦であり、明治維新の年でした。

この「英国策論」の翻訳が出回り、徳川についていた大名たちは浮き足立ち、維新勢力は勢いづき、明治維新という革命は成し遂げられたのです。






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