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2008/7/6

フリーメーソン-122  日本とフリーメーソン-6  フリーメーソン

坂本龍馬は、幕末混乱期に彗星のごとく現れ、犬猿の仲であった長州藩と薩摩藩を同盟関係に導き、商社の亀山社中(後の海援隊)を設立し、欧米製の武器を維新軍に提供し、明治維新を成功させた功労者でありますが、その背後には常にフリーメーソンのグラバーの影がつきまとっていました。

脱藩浪人の身分であった坂本龍馬が、何故に徳川、また長州、薩摩の大名クラスと、話をする事が出来たのか? さらに、脱藩浪人の身分の龍馬に、仲良くしなさいと言われて、薩長の大名が、 「 はいそうですか 」 となるほど、江戸時代の封建制度は甘くありません。

それは、徳川、薩長ともにヨーロッパからの武器を求めていて、坂本龍馬がその武器を扱う商社の亀山社中(後の海援隊)から、彼らに武器を売っていたからであり、その背後にはイギリス政府、ロスチャイルド、ジャーディン・マセソン商会、グラバー商会がありました。

それでは、何故グラバーは直接薩長と武器取引をしなかったのか? それは、ダミー会社として、坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)を使う必要があったからで、彼が暗殺された背景にも、この武器取引に関してのトラブルがあったからなのです。 これについては、今から説明してゆきたいと思います。



フリーメーソン-48 坂本龍馬誕生
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/640.html
フリーメーソン-49  グラバーと坂本龍馬の対面
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/641.html


幕末の混乱期、大きな変動に対し、これからどう動くかは、各藩の藩主たちにとっては、死活問題で、その最先端情報を入手し、スパイ活動を行うために、下級武士を江戸に送り出していました。 

これは、何かトラブルがあった時に、責任ある立場の人ではなく、切捨て御免の下級武士(藩士)のほうが、都合が良かったのです。  江戸時代は、藩士は切り捨て御免の対象で、いきなり理由も無く、上級武士に切り捨てられても、それは犯罪にはならなかったのです。 すなわち、やばそうになったら、自分の藩士を切り捨てればよいので、都合がよかったわけです。

坂本龍馬が学んだ、千葉道場などの有名道場には、全国から諜報活動の任務を負った者達が集まり、お互い情報交換の場としていたのです。

龍馬の場合も、形の上では 「剣術習得願い」 が提出された事になっていますが、下級武士からそのような大それた願いが出せるわけでもなく、またそれが受理されるほど武家社会は甘くはありません。  彼は、土佐藩から諜報活動の任務を受け、千葉道場へ送りだされたのであり、その証拠に龍馬の江戸行は、藩の家老福岡家の 「御用日記」 にきちんと載っています。

幕府は朝廷の動き、またグラバーやジャーディン・マセソン、ロスチャイルド、サッスーン、英国政府の動きが気になるところで、神戸海軍操練所に所属する勝海舟と龍馬を使って、戦艦の操縦技術を教わりながら、外国人教官から様々な海外の情報を収集していました。  

そういう意味では、坂本龍馬は土佐藩と徳川幕府のダブルエージェントであったといえ、脱藩しているのでどこの藩にも属さない、また度胸がありどこにでも踏み込み、人懐っこく人を惹きつける魅力のある龍馬は、グラバーにとって理想的なエージェント(パートナー)と映ったに違いありません。

次に、何故にグラバーは、薩長との武器取引に、坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)を使う必要があったかの説明ですが、これはグラバーが当時の徳川幕府の法律をかいくぐる為に、商売の経験が全くない脱藩浪人の坂本龍馬に亀山社中を設立させ、それをダミー取引の商社として使い、影で操っていたのです。


フリーメーソン-50  亀山社中
http://diary.jp.aol.com/renaissancejapan/642.html
フリーメーソン-52  横浜ロッジNo.1092
http://diary.jp.aol.com/renaissancejapan/644.html


亀山社中とは、慶応元年(1865年)に薩摩藩の援助を受けて、坂本龍馬が設立した貿易商社で、後に経営が行き詰まり、慶応3年(1867年)に土佐藩の援助を受けることになり、その名を海援隊と改めました。

幕末の混乱期、幕府と維新軍は競うように欧米の武器や弾薬を購入しており、1865年〜1870年に長崎で17万2000挺(241万ドル)、横浜で32万8600挺(447万ドル)の小銃が日本に輸入されました。

輸入された小銃では、ミニー銃、エンフィールド銃など先込施条銃が中心でありましたが、スペンサー銃やスナイダー銃など後込施条銃も輸入されています。  

ミニー銃、エンフィールド銃、スペンサー銃は、アメリカの南北戦争(1861-1865)で広範に使用された小銃で、戦争終結と共に大量に上海市場に出回り、それが日本にも持ち込まれるようになったのです。

特に戊辰戦争で活躍したアームストロング砲は、1847年に設立し水力用機械を製造していたアームストロング社が、ロシアとのクリミア戦争を機に兵器製造に転換し、開発したもので、イギリス政府公認となり、この会社はロスチャイルド、ジャーディン・マセソン社
と深い縁があります。

しかし、1860年以降の軍事費の削減で、政府からの注文も減少し経営難となり、1863年に事業の建て直しを図り、海外市場向けの兵器製造に転換したばかりの状況で、戦争男爵ロスチャイルドやジャーディン・マセソン社とつるんで、日本に内乱を引き起こし、一儲けしようとしていたのです。


フリーメーソン-54  長州ファイブ  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/646.html


尊皇攘夷の長州藩への報復のため、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの4ケ国は、1864年に下関を攻撃し(馬関戦争)、まるで大人と子供の戦いのごとく、徹底的に叩きのめされた長州藩ですが、ジャーディン・マセソン商会とグラバーは長州藩に武器を売り儲けようとしていました。


馬関戦争(下関戦争)
http://inforyoma.com/bakumatu/senso.htm


第2次長州征伐の開始間近となる1865年5月イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四国代表は「四国共同覚書」を作成しました。 これは日本が明治維新の革命が成立した後、イギリスが独占的に明治政府と貿易するのを牽制する目的があったのです。 

この内容は、日本の内戦に対する厳正中立、絶対不干渉、密貿易の禁止で、更には日英通商条約の第三条にも 「軍用の諸物は日本役所の外へ売るべからず」 とあり、武器を他藩に売却することは禁じられていました。

しかしながら、長州藩はのどから手が出るほど武器が欲しく1万人の藩士を武装させたいと考えており、最低でも7500挺の銃と軍艦を必要としていました。


また、ジャーディン・マセソン商会や、その代理店であるグラバー商会も何とかビジネスをしたいと思っており、そこで考え出されたのがダミー会社(亀山社中)の設立です。


馬関戦争で長州藩と一戦交えたイギリス政府は、長州への武器ビジネスの許可を下ろさないから、ダミー会社(亀山社中)を通じて長州藩に武器を売却する事により、グラバーは、この問題を解決。

「軍用の諸物は日本役所(徳川幕府)の外へ売るべからず」 という問題に関しては、お金による取引ではなく、物々交換という手段で、グラバーは抜け道を考えました。

米、麦、塩などによる支払いを認めたのであります。 グラバー商会はそれをジャーディン・マセソン商会に持って行き、それを薩摩藩が買い上げるようにし、薩摩藩とイギリスとは既に武器の売買で気心を通じていたからこの三角貿易が実現したのでありますが、そして薩摩と長州とを貿易で結んだのが坂本竜馬の亀山社中であります。


すなわち、坂本龍馬の仲介による薩長同盟とは、グラバーとジャーディン・マセソン商会が仕組んだダミー会社(亀山社中)による武器取引であったのです。 


亀山社中は1865年の5月に設立し、7月には既に7300挺の銃のビッグビジネスを長州と成立させていますが、常識ではこのような事はありえません。

これは、長州藩の井上聞多(井上馨)と伊藤俊輔(伊藤博文)が長崎でグラバーと会ってミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺の購入契約の話を既に済ませており、坂本龍馬の亀山社中はダミーとして通っていただけであるからなのです。

続いての大型蒸気船ユニオン号については、名義は薩摩藩、運用は長州藩、乗務員は亀山社中というリース契約の形をとる事により、うまく長州藩に引き渡しました。

坂本龍馬は商売をやった事がないのですから、突然にこのような大型の海外貿易の実務が出来るわけがありません。 それ故、亀山社中の実務は、グラバー邸から少し降りたところにある長崎の豪商の小曾根英四郎(こぞねえいしろう)がグラバーによって選ばれていたのです。

すなわち、坂本龍馬の薩長同盟も亀山社中にしても、全てロスチャイルド、ジャーディン・マセソン、グラバーで全て段取りが出来ていて、それに坂本龍馬が乗せられ、フリーメーソンである彼らに操られていたと言う事が出来ます。

こうして、ジャーディン・マセソン商会 − グラバー商会 − 亀山社中(後の海援隊)− 薩摩藩、長州藩 の武器取引のルートが出来上がり、徳川に対抗できるだけの武器を入手し、徳川 vs 薩長連合 の緊張は一気に高まりました。

イギリス政府やロスチャイルド、ジャーディン・マセソン商会は、ビジネスとして武器を借金してまで大量に購入してくれる薩長を応援しますし、長く続いた徳川幕府を倒し、イギリスの傀儡としての薩長政権をつくり、日本を植民地化できるようになるので、やはり薩長を全面的に支援しました。

そうして、いよいよ日本に大きな内戦が起こると予想したジャーディン・マセソン商会とグラバーは、見切りで大量の兵器を発注する事になります。


ここにきて、尊皇攘夷で反幕府勢力につき、薩長に武器を輸出していた坂本龍馬は、イギリス、ジャーディン・マセソン、グラバーなどのフリーメーソンの魂胆に気付き、内戦は日本の為にはならないとし、公武合体をはかり、内戦を避ける方向に、強く動き始めました。  


慶応三年(1867)6月9日に土佐藩参政、後藤象二郎とともに藩船「夕顔」に搭乗し長崎を出航した龍馬は、八ヶ条の時勢救済案をまとめ、後藤に提示しました。

これが有名な「船中八策」で、幕府と討幕派との武力衝突を避けうる可能性を提示しており、この文書は 「大政奉還に関する建白書」 の基案となり、明治新政府の 「五箇条の御誓文」 にもつながる注目すべきものでありました。

これは、幕府が政権を朝廷に返上することにより、徳川家を一大名として保護し、新政府内での発言力を温存させ、薩長の武力による討幕の理由を失わせる一石二鳥の妙案であったのです。

心優しい坂本龍馬にすれば、死に体の徳川をこれ以上痛めつけても、新しい日本に何の役にも立たないと考えたわけですが、これがロスチャイルド、ジャーディン・マセソン、グラバーなどの武器商人、そして死の商人たちをバックアップするイギリス政府の怒りを買ったのです。

また、あくまでも倒幕の薩摩藩、そして長州藩からも、坂本龍馬は孤立してゆくことになります。  そりゃ、薩長の立場からすると、今までさんざんリスクを犯してまで、徳川に逆らってきたわけで、ここで公武合体した後で、再び徳川が力を取り戻してしまったら、将来はありません。   また、実際にイギリスと戦った薩長両藩は、歴然とした文明の力の差をみせつけられており、イギリスを味方につけておけば、徳川に必ず勝てるという勝算があったと思います。  ですから、薩長の立場としては、勝負です。


ジャーディン・マセソン商会とグラバー商会の立場から言えば、これはあくまでもビジネスであり、南北戦争の終結で余った武器が上海市場に流れ込み、日本で内戦を起こさせ、そこで一儲けしようとしたのと、またクリミア戦争が終わり、経営難となったイギリスのアームストロング社が経営改革で、日本市場を狙ってきたのと時期を同じくしているからなのです。

ようやく戊辰戦争に持ち込み、いまから大きな内戦が始まるとマーケッティングしたジャーディン・マセソン社とグラバー商会は大量の武器を買い込みましたが、江戸無血開城など、内戦が予想以上に大きくならず、早く終結してしまい、その在庫に耐えれずグラバー商会は倒産してしています。

何故、経営リスクを犯してまで大量の武器を買い込み在庫を持ったかといえば、戦争が始まり、注文を受けてから生産、そして出荷していたのでは、とても間に合わず、他の商人にビジネスを持っていかれる可能性が高かったからであります。

その分、この内戦を確実なものとするため、イギリス政府も明確に徳川打倒を打ち出し、薩長を戦争に巻き込むようにしていたと思われます。

すなわち、徳川慶喜の大政奉還は、幕府に武器を売りつけようとするフランス、およびその武器商人、そして維新軍に武器を売りつけようとするイギリス、およびその武器商人にとっては、 「 なんちゅうことすんねん! もっと一生懸命戦わんかい! 」 という感じではないでしょうか。

当然、このような時期に公武合体を唱えた坂本龍馬ですから、彼らにとって龍馬は、もはや邪魔な存在でしかなかったと言えます。  

そして、薩長の武器取引は、坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)が窓口であったわけですから、龍馬が公武合体という信念の下で、武器販売を拒むことすらできるので、薩長とグラバー、そしてビジネスの焦げ付きを恐れたジャーディン・マセソン商会は、自らの死活問題として、龍馬に消えてもらうよりなかったのです。  



------------------ 大政奉還と坂本龍馬暗殺、そして戊辰戦争 ----------------


しかしながら、イギリス、フランス、薩長は、この内戦を止めさせてくれません。 薩長の倒幕の機先を制するため、山内容堂が慶喜に大政奉還の建白書を提出したのが、1867年10月29日、慶喜が朝廷に大政奉還の上奏文を提出したのが1867年11月9日ですが、

それを事前にキャッチしていた岩倉具視の画策により、その前日に薩長両藩に倒幕の密勅が手渡されていました。


そして、邪魔になった坂本龍馬が暗殺されたのが、1867年11月15日


薩摩、長州、芸州(広島)の三藩は京都。大阪に出兵し、1868年1月3日に薩摩、土佐、芸州、尾張、越前の兵に守られる中、王政復古の大号令がだされ、幕府の廃止と天皇を中心とする新政府の樹立が宣言されました。

折角、徳川慶喜が大政奉還により、内戦を防ごうとしたのに、挑発してくる薩長に対し、旧幕臣と会津、桑名両藩兵は激昂し、京都から大阪城へ移っていた慶喜も薩長征討を決意。

慶応四年(1868年)1月26日、旧幕府軍は京都にむけて進撃を開始し、27日の夕方、京都南郊外の鳥羽と伏見で薩長連合軍と衝突、この鳥羽・伏見の戦いを機に、幕府軍vs維新軍の戊辰戦争(1868-1689)が勃発する事になります。



フリーメーソン-56  大政奉還
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/648.html
フリーメーソン-59  戊辰戦争
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/651.html
フリーメーソン-57  龍馬暗殺 〜幕末の政情〜
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/649.html
フリーメーソン-58  龍馬暗殺 〜真犯人〜
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/650.html
フリーメーソン-55  メーソンだらけの明治維新
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/647.html
フリーメーソン-60  田原坂 (たばるざか)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/652.html






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