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2008/7/17

フリーメーソン-130  フリーメーソンとは何か-5  テンプル騎士団  フリーメーソン
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テンプル騎士団の紋章
二人の騎士は清貧の精神、および騎士にして修道士であることを示しています。


テンプル騎士団は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会の事で、正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれます。

十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(武器を持って戦闘にも従事する修道会)が誕生しましたが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものであります。 十字軍は、イスラム教徒から聖地エルサレムを奪回しましたが、巡礼者たちの安全までは確保することが出来ず、聖堂騎士団は、こうした巡礼者たちの保護を目的として、1096年の第1回十字軍の終了後に創設されました。

「ソロモンの神殿」 の置かれていた王宮の跡地に本拠があった為、聖堂(テンプル)騎士団という名称がつき、この騎士団はまたたくまにヨーロッパ全土に普及し、貴族だけでなく様々な階層からなる巨大な組織に発展してゆくことになります。




テンプル騎士団は1147年の第2回十字軍に際して、フランスのルイ7世を助けて奮闘したため、十字軍の終了後、ルイ7世は騎士団にパリ郊外の広大な敷地を寄贈。  ここにテンプル騎士団の西欧における拠点が建設されました。  この支部は壮麗な居館のまわりに城壁をめぐらした城砦のごときものであり、教皇や外国人君主がフランスを訪れる際の宿舎となり、王室の財宝や通貨の保管まで任されるようになってゆきます。


また、テンプル騎士団の騎士たちの強さと勇敢さは伝説的なもので、特に1177年にモントギサールの戦いでサラディン率いるイスラム軍を撃退し、フランスのフィリップ2世やイングランドのリチャード1世(獅子心王)とも共闘し、スペインやポルトガルでも、対イスラム教徒戦闘に従事して、その勇名を不動のものとしました。


そして、テンプル騎士団の入会者たちは、個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、騎士団は軍事活動のみならず、巨大金融機関としての側面も持つようになり、テンプル騎士団が巡礼者の預金証を作成し、彼らの資産を預かるサービスを編み出しました。

このような新たなビジネスモデルの構築と、多くの寄進を集めたことによって、12世紀から13世紀にかけて騎士団は莫大な資産をつくり、それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有し、

そこへ教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有しており、パリにあったテンプル騎士団の支部はフランスの非公式な財務省といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する財政援助を行いました。


騎士団の破滅は急に訪れます。  13世紀の終わりに、中央集権化をすすめていたフランス王フィリップ4世は財政面でたびたびテンプル騎士団の援助を受けていたにもかかわらず、テンプル騎士団を裏切ったのです。

フィリップ4世は、当時もっとも勢力のあった二つの騎士団、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を合併し、自らがその指導者の座について聖地を再征服し、その後、自分の子孫にその座を継承していくことで自らの一族が世々にわたって全ヨーロッパにおよぶ強大な権力を持とうと考えはじめました。

しかし、現実問題としてフランスは常に財政難にあえいでおり、フィリップ4世は腹心のギヨーム・ド・ノガレのアイデアにしたがって、1296年には教皇庁への献金を禁止し、さらに1306年にはフランス中のユダヤ人をいっせいに逮捕、資産を没収した後に追放するという暴挙に出ました。

こうしてまとまった資産を手にしたフィリップ4世が、次に目をつけたのが富裕なテンプル騎士団であったのです。

当時のフランスはイギリスとの戦争によって多額の債務を抱え、テンプル騎士団が最大の債権者であった為に、フィリップ4世は債務の帳消しをはかって、テンプル騎士団の壊滅と資産の没収を画策します。


まず、手始めにフィリップは聖ヨハネ騎士団との合併をテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーに提案しましたが、即座に拒絶されます。

そこで王は、どのようにテンプル騎士団の資産を没収するかを検討しますが、そもそも何の罪もない人々を一般的な裁判形式で裁いても有罪の立証に持ち込むことは難しいことがわかったので、

そこで、匿名の証言を採用できる「異端審問方式」を用いることで有罪に持ち込もうと考えました。  

異端審問を行うには教皇庁の認可が必要となりますが、当時の教皇はフランス王の意のままに動くフランス人のクレメンス5世であり、こうしてテンプル騎士団を入会儀式における男色行為、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で起訴しました。


1307年10月13日、フィリップ4世はフランス全土において、テンプル騎士団のメンバーたちを何の前触れもなく一斉に逮捕。  異端的行為など100以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を「自白」するまで拷問を行いました。

異端審問において立ち会った審問官は、すべてフランス王の息のかかった高位聖職者たちで、特権を持ったテンプル騎士団に敵意を持つ人ばかりで、騎士団は異端の汚名を着せられ、資産は聖ヨハネ騎士団へ移すこと、以後の活動を全面的に禁止することが決定されました。

資産の没収を終えると、フィリップ4世は口封じのために1314年、投獄されていた4人の指導者たちの処刑を指示。  最後の総長(グラン・メートル)のジャック・ド・モレーら最高指導者たちはシテ島の刑場で生きたまま火あぶりにされました。


この時、教皇庁と対立していたロベール王の率いるスコットランドは、そもそも教皇の決定など意に介していなかったので、同地の騎士団も弾圧を免れ、テンプル騎士団の残党はスコットランドに逃れました。

スコットランドが近代フリーメーソンの発祥の地とも言われ、フリーメーソンのロッジが数多く存在するのは、この為であります。


幕末に、坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)にヨーロッパの武器を売っていた、グラバー商会のトーマス・グラバーは、スコットランドの寒村フレイザー・バラに生まれ、そこからさほど遠くない港町アバディーンに移り住みましたが、

このアバディーンの土地柄は、フリーメーソンの密度の濃い街として知られています。 人口が16万人にも満たない街に、ロッジが13個もあるのです。  サンフランシスコという大都市でさへ、ロッジ数が12であることを考えれば、いかに突出した人口比率であることが分かります。


また、公文書に残されている最古のフリーメーソンの記録があるのも、この地であり、1541年、「フリーメーソン・アバディーン・ロッジ」 というシールで封印された訴訟関係文書で、なんとフリーメーソンのロッジが、アバディーン市を訴えているのです。


この事からも、当時のスコットランドで、フリーメーソンの力がいかに強かったか、窺い知る事ができます。



フリーメーソンとは何か  まとめ  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/770.html






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