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2008/8/16

フリーメーソン-151  フリーメーソンとは何か-26  アメリカ独立宣言と建国  フリーメーソン
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トマス・ペイン ( Thomas Paine , 1737 - 1809 )
1776年出版の 「コモンセンス」 がアメリカ独立に大きな影響を与える


新大陸の植民地利権をめぐるイギリスとフランスの抗争は、1763年にイギリスの圧倒的な勝利に終わり、ミシシッピ川より東の広大な地域と、カナダをフランスから獲得したイギリスは、この勝利の代償として巨額の戦争債務を抱える事になりました。 一方のフランスもルイ14世からの度重なる戦費の支出と、この植民地戦争の敗北、さらにアメリカ独立戦争に巨額な支出を行った為、フランスの国家財政は、収入が5億ルーブルに対し、支出が45億ルーブルと、支出が収入の約9倍と大赤字を抱える事になり、食べる事にも事欠くようになった民衆の不満と怒りが爆発し、1789-1799年にフランス革命は起こりました。


マリー・アントワネット
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/202.html
フリーメーソン-6  エルメスデザイン  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/596.html


イギリスからの独立の為、フリーメーソンの人脈を使って、フランスに応援を求めたのが、
ベンジャミン・フランクリンであります。 当時、フランスには天文学者ラランドや「百科全書」の寄稿者であった哲学者エルヴェシウスを中心とする 「九詩人のロッジ」 があり、エルヴェシウスの死後、ロッジはその未亡人マダム・エルヴェシウスによって運営されていましたが、フランクリンも 「九詩人のロッジ」 に入会し、このフランスを代表する知識人の集まりであったロッジの支援を得て、アメリカ=フランス同盟条約が締結されたのです。



フリーメーソン-15  フランクリン  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/605.html
フリーメーソン-9  グラントリアン(大東社)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/599.html


イギリスは、フランスとの戦争で抱え込んだ巨額の戦争債務を、アメリカという植民地への税金を課する事によってその支払いをしようとし、1764年に西インド諸島からアメリカに輸入される砂糖に関税がかけられ、税収入を低下させる密輸も厳しく取り締まりされました。

1765年には、印紙税法が出され、法律文書、商業文書、新聞、出版物にも印紙を貼ることが決められ、あらゆる階層がこれに強く反発。

印紙税法は、翌年に廃止となりましたが、1767年にイギリスはタウンゼント諸法と呼ばれる別の法案を通過させ、イギリスからアメリカに輸入されるガラス、紙、茶、などに関税をかけ、植民地経営の費用を捻出しようとしましたが、植民地の強い反発を受け、3年後に廃案となりました。

そして最後に登場したのが、1773年の茶税法で、これは財政的に破たんしていた東インド会社に、新大陸における茶の独占販売する権利を与えるもので、これに不満を持つ植民地のアメリカ人が、ついに1773年12月16日に、ボストン茶会事件を起こすことになります。


フリーメーソン-16  ボストン茶会事件
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/606.html


1773年、イギリス議会が東インド会社に茶の貿易の独占権を与えて、その財政的な危機を救うために茶税法が出されると、これに強く反発したのがボストン市民で、特に中流階級の市民が集まった 「セント・アンドルーズ・ロッジ」 が、ボストン茶会事件に深く関与しました。 

この事件の結果、イギリスはボストン港を閉鎖するとともに、マサチューセッツ州の自治権を剥奪し、両国の緊張は一気に高まり、1775年4月19日に武器貯蔵所を接収するために、コンコードに向かっていたイギリス軍は、その途中にあるレキシントンでアメリカ兵と最初の武力衝突を起こしました。

その前日の夜、 「セント・アンドルーズ・ロッジ」 の会員であったポール・リヴィアはジョセフ・ウォレンの指示により、イギリス軍がコンコードに進撃する事をノース教会から灯火の合図で伝えると共に、早馬でレキシントンの民兵に知らせました。

また、「セント・アンドルーズ・ロッジ」 の指導者で、著名な外科医であったジョセフ・ウォレンが1775年6月17日にバンカー・ヒルの戦いで戦死すると、反英感情と愛国心はいやがうえにも高まりました。

アメリカ植民地は、イギリス本国の植民地政策に強く抵抗しましたが、独立を最初から目指した急進派の他に、抵抗運動はするが独立までもは望まないという穏健派もかなりいましたが、バンカーヒルの戦いは、もはや選択の道が一つしかないところまで至らせ、わずか47Pのトマス・ペインの 「コモンセンス」 が出版されるや、アメリカ植民地の抵抗運動を、独立の方向に大きく動かしてゆきました。

アメリカの独立宣言は、人間は生まれながらに平等であり、生命・自由・幸福を追求する権利を持つという、ジョン・ロックの思想に源流を持つ、ヨーロッパの啓蒙思想の終着点で、近代の幕開きでるとも言えます。

グールドの 「フリーメーソンの歴史」 によれば、 「独立宣言」 に署名した56人のうち、3人を除いて全てフリーメーソンであったとしています。

フランクリンと並ぶアメリカ建国の父、ジョージ・ワシントンもフリーメーソンでありましたが、この事実は、アメリカ建国がフリーメーソンと深く関わっていたことを示すものであります。

ワシントンは、1752年11月4日にヴァージニアの 「フレデリックスバーグ・ロッジ」 に 「徒弟」 として加入し、翌年3月3日に 「職人」 の位階に進み、8月4日には 「親方」 の位階に進級した事が記録に残されています。

独立戦争が始まると、軍隊ではさかんに 「軍事ロッジ」 が創設され、ワシントンはこの 「軍事ロッジ」 に好意的で、自らもロッジの集会に参加し、1778年12月に革命軍がフィラデルフィアを奪回したとき、勝利を祝って約300人のフリーメーソンが市内を行進し、クライスト教会で記念集会を持ちますが、この時、ワシントンはフリーメーソンの正装をして、行進の先頭にたったとされています。

独立戦争は、サラトガの戦いでアメリカ側が勝利をおさめたのを契機に、戦況はアメリカに有利となってゆき、フランクリンのフリーメーソン外交によって、フランスが参戦するとイギリスの劣勢は明らかとなり、1781年のヨークタウン陥落によって戦争は事実上の終結を見ました。  そして1787年にはアメリカ合衆国憲法が制定され、1789年にはワシントンが初代大統領に就任。


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フリーメーソン-17  ジョージ・ワシントン  
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そして、アメリカ合衆国の国璽(こくじ)が1782年に制定され、フリーメーソンのシンボルマークがデザインされており、1ドル札のデザインともなっています。


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アメリカ合衆国の国璽 ( Great Seal of the United States )


1886年にフランス政府はアメリカ合衆国独立100周年を記念して 「 自由の女神像 」 を贈っていますが、その製作者フレデリック・バルトルディもフリーメーソンであります。


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そして、その自由の女神の足元の銘板には、次のようにしっかりと記述されています。

「この像はフランスのフリーメーソンのグランドマスターが、アメリカのフリーメーソンに贈ったものである。」


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フリーメーソンとは何か  まとめ  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/770.html







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