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2008/8/30

フリーメーソン-161  フリーメーソンとは何か-36  明治維新  フリーメーソン

フリーメーソンの大物、ペリー提督が黒船で来襲し日本を開国させ、欧米諸国が日本を植民地化しようとする中、当然の如く国内では、弱腰の徳川幕府に見切りをつけ尊皇攘夷が起こり、日本を守るために欧米人を排除する動きが高まり、その先鋒にたったのが、薩摩・長州の維新軍です。  

ところが、フタを明けてみると、あらら・・・維新軍こそが欧米に手なづけられ、親欧米の文明開化が明治維新の結果となっていました。 イギリスの傀儡政権が明治新政府といえましょう。  そこで、幕末に活躍したフリーメーソンたちを紹介したいと思いますが、まさにメーソンだらけの明治維新です。  明治維新とは、欧米の啓蒙主義思想から産み落とされた近代フリーメーソンの日本への伝播と言っても過言ではないでしょう。


フリーメーソンの葬儀行進
幕府の弱腰外交に対して、尊皇攘夷の運動が起こり、攘夷テロの嵐が吹き荒れ、あちこちで外国人が斬り殺されました。 この無差別テロに怒った外国人たちは、軍服の上にフリーメーソンの正装であるエプロンをつけ、モーツアルトの「フリーメーソンのための葬送曲」を奏でながら、盛大な葬儀を示威行為として敢行。 当時の日本の人々は、そのあまりの異様さに驚き、あわてて家に引っ込み、雨戸を閉めたのでした。 


フリーメーソン-35  尊皇攘夷
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/627.html


ペリー提督
1853年7月8日、フィルモア大統領の親書を携えてきた東インド艦隊司令官のペリー提督はフリーメーソンで、彼が所属していたロッジは、ニューヨークの 「ホーランドNo.8」。

フリーメーソン-27  黒船襲来
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フリーメーソン-47  唐人お吉
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ジョン万次郎
漁に出て遭難し、アメリカ船に助けられ、そのまま船長の養子となり、アメリカで教育を受け、フリーメーソンでもあった名門のデラノ家(ルーズベルト大統領の家系)や名門ペリー家とも交流を持ち、後にアメリカ第30代大統領カルピン・クーリッジも、 「ジョン・マンの帰国は、アメリカ最初の大使を日本に送ったに等しい 」 とまで言い切るまでの人物となり、ペリーとの交渉にタイミングを合わせた如く、1851年に日本に帰国し、1853年には貧しい漁師の子供であった身分にも関わらず、1853年に幕府に召聘され江戸へ行き直参の旗本となり、アメリカとの通訳に抜擢されたジョン万次郎。  彼の銅像では、左手にフリーメーソンのシンボルである直角定規とコンパスを持っており、ペリー提督の日記にも「 日本語のできる諜報部員を育成する必要がある 」 と、書かれているように、ジョン万次郎は本人がフリーメーソンであったかどうかは別として、フリーメーソンに背後から操られていた、アメリカ側の諜報部員であった事は明らかでありましょう。

フリーメーソン-31  ジョン万次郎
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グラバー
フリーメーソンのメッカであるスコットランドのアバディーン出身のグラバーは、幕末の混乱期に、フリーメーソンのつてを頼って若干19歳でビジネスチャンスを求めて上海に行き、
代々フリーメーソンでもあり、ロスチャイルドと縁戚関係にあるジャーディン・マセソン商会に入社しました。 ジャーディン・マセソン商会は、中国での阿片ビジネスをサッスーン財閥と共に仕切っていたイギリスの会社で、このサッスーン家も代々フリーメーソンで、ロスチャイルドと縁戚関係にあたります。  イギリス最大の銀行であるHSBC(香港上海銀行)は、中国での麻薬取引で得た莫大な利益を預けるために必要となり、イギリスの王立直轄植民地協会が創設した銀行で、その主要な出資者は サッスーン商会、ジャーディン・マセソン商会、ベアリング商会、そしてロスチャイルドで、役員は全員高位のフリーメーソンでありました。  最近、安室奈美恵がVidal Sassoon のシャンプーのCMをしていますが、このサッスーン財閥の一事業の一つです。

フリーメーソン-30  ジャーディン・マセソン商会
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フリーメーソン-29  サッスーン財閥
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フリーメーソン-3  香港上海銀行
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/593.html
フリーメーソン-98  安室奈美恵
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/692.html


そして、日本の内乱を予想していたかのように、グラバーは日本にやって来て、長崎に居を構え、ジャーディン・マセソン商会向けにお茶の精製ビジネスからスタートし、幕末の混乱にあわせて、ロスチャイルドと縁戚関係にあるジャーディン・マセソン商会を通じて、ロスチャイルドグループのアームストロング社、他から武器や戦艦を購入し、徳川軍や維新軍に売却するようになりました。 日英通商条約の第三条に 「軍用の諸物は日本役所の外へ売るべからず」 とあり、武器を他藩に売却することは禁じられており、この問題を解決するために行われたのが、薩摩藩に対しては金銭の授受ではなく、米・麦・塩などでの物々交換により実質的な貿易を行い、馬関戦争で長州藩に武器輸出を認めないイギリス政府方針に対しての解決策としては、イギリスと仲が良かった薩摩と、薩摩と犬猿の関係にあった長州間の貿易を行うため、坂本龍馬に貿易商社 「 亀山社中(後の海援隊) 」 を設立させ、この亀山社中を通して、武器輸出を行う事で問題を解決しました。  すなわち、坂本龍馬の仲介による薩長同盟とは、グラバーとジャーディン・マセソン商会が仕組んだダミー会社(亀山社中)による武器取引であったのです。  以後、イギリス政府の徳川討幕の方針を受けて、維新軍のみに武器輸出を行い、徳川軍と維新軍の軍事バランスが崩れたことにより、明治維新は達成されました。 また、坂本龍馬が長崎に亀山社中を設立したのが1865年ですが、日本に初めてフリーメーソン・ロッジ(横浜ロッジNo.1092)が創立されたのも同じ1865年であります。


フリーメーソン-33  グラバーの誕生
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フリーメーソン-34  グラバー来日
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/626.html
フリーメーソン-38  グラバー商会設立
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/630.html
フリーメーソン-46  グラバー園内 フリーメーソン石柱
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/638.html
フリーメーソン-50  亀山社中
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/642.html
フリーメーソン-52  横浜ロッジNo.1092  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/644.html
フリーメーソン-57  龍馬暗殺 〜幕末の政情〜
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/649.html
フリーメーソン-58  龍馬暗殺 〜真犯人〜
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/650.html


アーネスト・サトウ
アーネスト・メーソン・サトウは、ミドルネームのメーソンが表しているように、正真正銘の石工の家系です。 彼はイギリスの外交官で、駐日領総事ラザフォード・オールコックや駐日公使ハリー・パークスの下で活躍し、明治維新に大きな貢献をした人物です。 それは、22歳のサトウが「ジャパンタイムズ」に書いた「English Policy(英国策論)」に、 「徳川幕府を倒し、天皇と大名連合体が日本を支配しなければならない」 とあり、徳川が約束した兵庫開港の期日が遅れるようなことがあれば、 「イギリス政府は強制と流血に訴えると」 したもので、この期日が2年後の1868年元旦であり、明治維新の年でした。 この「英国策論」の翻訳が出回り、徳川についていた大名たちは浮き足立ち、維新勢力は勢いづき、明治維新という革命は成し遂げられ、1868年に明治新政府が発足したのであります。


フリーメーソン-37  アーネスト・サトウ
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フェリックス・ベアト
幕末から明治にかけての貴重な写真を撮り続けたイタリア人がフリーメーソンのフェリックス・ベアトで、今日の我々が教科書などで目にする写真は、ほとんどは彼が撮影した写真です。


フリーメーソン-36  フェリックス・ベアト 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/628.html


レオン・ロッシュ
フランスの全権大使として江戸に赴任したレオン・ロッシュはグラントリアン(大東社)のメンバーで徳川幕府を支援し、横須賀製鉄所を開かせ幕府の軍制改革に助力しました。


エドワルド・スネル
プロシアのメーソン、エドワルド・スネルは、徳川につき、長岡藩の河井継之助と長岡城(1868年、官軍との戦い)でともに戦いました。


ブリュネ
フランスのメーソン、ブリュネは、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗しましたが敗北し、戊辰戦争は終結を迎え、イギリス系のフリーメーソンが勝利を手にする事になります。 


シャルル・ド・モンブラン
フランス人でベルギーのメーソンだったシャルル・ド・モンブランは、1865年、ブリュッセルで五代友厚と商社を設立しているほど仲が良く、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりもしています。


グラバー
倒幕側にはイギリス系のメーソンであった、トーマス・ブレイク・グラバーがつき、倒幕諸藩に武器弾薬、艦船などを売り、軍事援助を行いました。


長州ファイブ
長州ファイブとは、幕末に長州藩から上海経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、 井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝) の5名の長州藩士の事ですが、彼らの留学は、ジャーディン・マセソン商会、横浜支店の支配人、サミュエル・ガワー(Samuel J.] Gower)が斡旋したもので、ジャーディン・マセソン社所有のチェルスウィック号で1863年5月12日に横浜を出航し、上海に向かいました。 5月18日頃、上海に到着した後、井上と伊藤は約300トンのペガサス号で、他の3名は10日ほど後に5,600トンのホワイト・アッダー号でロンドンに向かって出港し、到着したのは11月4日であります。  英国留学中の世話役になったのは、ジャーディン・マセソン商会の創業者の一人であるジェームス・マセソンの甥にあたり、マセソン商会(ロンドン)の社長を長く務めたヒュー・マセソンですが、このヒュー・マセソンの紹介で、長州ファイブはロンドン大学ユニバーシティー・カレッジに留学することができました。 ヒュー・マセソンは、1873年3月に鉱山採石最大手と知られるリオ・ティント(リオ・ティント・ジンク、RTZ)を設立し、1898年まで会長を務めましたが、設立に関わった金融業者、事業家による国際コンソーシアムの中にはロスチャイルド家の名前もありました。  さらにロスチャイルド家は1887年から1889年にかけてリオ・チィントの大株主となり、経営に大きな発言力を持つようになっています。

長州ファイブがロンドンに留学していた頃、長州では攘夷が真っ盛りであり、長州ファイブも日本国内では 「 攘夷! 」 と叫んでいましたが、現実はイギリスのジャーディン・マセソン商会やグラバーに買収され、イギリスのエージェントであったのです。 これは適当に言っているのではありません。 英国政府のクラレンド外相がパークスに送った文書に、薩長の維新の志士たちの事を 「 エージェント 」 と呼んでいる記録があるのです。  そこには、 「 エージェントの存在を秘密にしろ 」 とあり、別の文書で、1866年4月26日付けでハモンド外務次官からパークスに宛てた文書には、「 日本において、体制の変化が起きるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない 」と書かれた記録も残っています。 すなわち、明治維新の工作は、日本人に気づかれないよう、あくまでも秘密裏に行えと、指示しているのです。 維新の志士達は、どこが尊皇攘夷なのでしょうか、尊皇攘夷どころか、大英帝国やロスチャイルド、ジャーディン・マセソン、サッスーンの使い走りで、操り人形であったのが現実の姿であったと、私は思います。


西周 (にしあまね)と津田真道
1862年、徳川慶喜の政治顧問の西周(にしあまね)は、津田真道、榎本武揚らとともに、幕府の指示により、西洋の政治・法律・経済を研究するためにオランダのライデン大学に留学します。  その指導教官がライデンの「ラ・ヴェルテュ・ロッジ・ナンバー7」に属するフリーメーソンで、1864年10月20日、彼は指導生であった西周をこのロッジに紹介し、その日に35歳の西周は、「徒弟」「職人」として、フリーメーソンになる事を承認され、日本人では初めてのフリーメーソンとなりました。  津田真道も、1ケ月後にフリーメーソンとなっている事が記録に残されています。


フリーメーソン-26  西周
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/618.html


クラーク博士
ご存知、「少年よ大志を抱け」 で有名なクラーク博士もフリーメーソンで、欧米のフリーメーソンたちと明治維新を成し遂げた明治新政府は、日本の近代化を図るため御雇い外国人と呼ばれる指導者たちを日本に招き、教育を受けました。 明治政府は北海道に開拓使をおき、その初代長官に黒田清隆を任命しました。  その黒田が招いたのが、マサチューセッツ州のグランドマスターをしていたフリーメーソンのクラーク博士です。


フリーメーソン-61  クラーク博士
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/653.html


林董 (はやしただす)
日本の外務省の英国大使には、フリーメーソンが多く、日英同盟に調印した林董(はやしただす)駐英公使は、記録に残っている日本人初のイギリスのフリーメーソンメンバーで、ロンドンにある 「エンパーヤー・ロッジNo.2108」 に所属し、ロッジマスターにまで登りつめました。 日英同盟は、アーネスト・サトウが日本を去った2年後である1902年(明治35年)1月30日に、林董(はやしただす)駐英公使と、イギリスのペティ・フィッツモーリス外相(フリーメーソン)により調印されましたが、林がフリーメーソンでなかったら、日英同盟は無かったかも知れません。 ちなみに、フリーメーソンの駐英大使には、宮中の松平恒雄伯爵(宮内大臣、衆院議長、元駐英大使)、幣原喜重郎男爵(元首相、元駐英大使)もいます。


フリーメーソンとは何か  まとめ  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/770.html







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