renaissancejapn@aol.com

2008/12/13

デ・リーフデ号 (慈愛号)  国際政治・金融・企業
クリックすると元のサイズで表示します
デ・リーフデ号とオランダ人と長崎出島

日本とオランダの交流は、1600年4月19日、豊後(現在の大分県)臼杵湾にオランダ船デ・リーフデ号が漂着したことに始まり、オランダは、鎖国時代に長崎の出島で通商を許可された唯一のヨーロッパの国として、日本と世界をつなぐ架け橋となり、日本は医学や工学など、様々なヨーロッパの最先端技術や文化を学び、また日本が世界に紹介されました。



日本では秀吉が亡くなった年、1598年(慶長)にオランダのロッテルダムを出航した5隻の船がありました。  この船団は不運で、出航早々の3ケ月後に提督が病死し、翌年4月1日にマゼラン海峡に到達したときには、人も船も疲れきり、乗組員の多くが寒さと飢えで死んでゆきました。

チリ海岸で、生き残った2隻の船員達が会議を行い、何を思ったのか、 「 いっそ日本に向かおう 」 という結論に達しました。 日本についてはポルトガルが市場を独占し、スペイン人が後を追って割り込んでいた事は知っていましたが、日本へはどうゆけばいいのか、誰もが未経験でした。

ただ、積荷に毛織物があり、日本では毛織物が喜ばれると聞いていたので、ただそれだけの理由で日本を目指したのであります。  当時のオランダ人の勇敢さと楽観さには、呆れ帰ると同時に、嬉しくなってしまうものがあります。

2隻がチリ海岸を出発したのは、1599年11月27日で、針路を日本に向けましたが、1600年2月23日北緯20度あたりで再び暴風雨にあい、1隻は沈没し、デ・リーフデ号(慈愛号)は探すゆとりもなく進み、同年4月19日、ついに豊後(大分県)の臼杵(うすき)湾に着きました。  日本に着いたとき、かつて110人もいた乗組員で、生き残ったのは24人、その中で立って歩ける者は6人に過ぎませんでした。

この年の秋に関が原の戦いが起こり、徳川幕府がはじまりますが、デ・リーフデ号が臼杵についた頃、家康は秀吉の遺児を後見するという立場から、大阪城にいました。

家康は知らせを聞いて、大いに関心を示し、彼らを大阪に招きました。

船長は既に死に瀕していたので、航海士が大阪に行くことになりますが、航海士の名前はウィリアム・アダムス(1564-1620) というイギリス人で、スペインの無敵艦隊と戦った英国海軍の貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長をしていた人で、航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムズは、ロッテルダムからアジアに向かうベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、自ら志願し、このオランダ船の航海士となっていたのです。


スペイン無敵艦隊の敗北 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/823.html


彼は、オランダ人のヤン・ヨーステン(1556-1623)を伴って、家康と対面しました。この対面後、二人とも家康の貿易顧問となり、アダムスは三浦按針と改名して高250万石の幕臣になり、江戸日本橋ちかくに屋敷をもらい、ヤン・ヨーステンも幕臣として屋をもらいますが、彼の屋敷の所在地が、彼の名前をなまって八重洲(やえす)となりました。 東京駅八重洲口の八重洲です。

ちなみに、三浦按針の名前の由来は、「三浦」は彼がもらった領地のある三浦半島に因み、「按針」は彼の職業である水先案内人の意味であります。

ヤン・ヨーステンは、日本武士になると同時に、発足したばかりのオランダ東インド会社の日本駐在員になりましたが、オランダ東インド会社の設立は1602年で、デ・リーフデ号の奇跡の漂着によって、オランダ東インド会社は発足早々に日本を市場として取り入れることに成功し、日本に大きな影響を与えました。


クリックすると元のサイズで表示します
東京日本橋室町にある 「 三浦按針屋敷跡の碑 」

4

2014/8/8  3:48

投稿者:前田光栄
デ・リーフデ号とオランダ人と長崎出島

の切手が欲しいのですが、方法教えてください

※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ