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2008/12/20

オランダ東インド会社  国際政治・金融・企業
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オランダ東インド会社 アムステルダム本社


オランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie)は、1602年3月20日にオランダで設立された世界で初めての株式会社です。 その頭文字をVOCを組み合わせた社章はあらゆる場所や器物にも刻印されました。  1598年にロッテルダムを出航し、1600年に奇跡的に日本に漂着したデ・リーフデ号のウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンが徳川家康の目にとまり、日本とオランダの貿易が始まった事から、オランダ東インド会社は早々と日本を市場として取り入れることに成功し、さい先の良いスタートを切ることが出来ました。 発足したばかりのオランダ東インド会社の日本駐在員になったのが、ヤン・ヨーステンで、東京駅八重洲口の八重洲は、彼の屋敷があったところで、彼の名前がなまってつけられたものであります。

デ・リーフデ号 (慈愛号)
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この2年前にイギリスでも東インド会社が設立されましたが、これは当座制の会社で、その規模はオランダ東インド会社の1/10にも満たないもので、会社の性質は全く異なります。

イギリスが株式会社という発想ができなかったのは、貿易というよりも海賊の利益に頼るところが多かったからで、よく映画や本などに出てくる海賊というものは、コロンブスがアメリカ大陸を発見し、金銀財宝を積んだスペイン船がカリブ海を渡ってヨーロッパに航海している時に、エリザベス1世が国家ぐるみで海賊行為を行い、スペイン船を襲ったもので、海賊とはイギリスそのものだったのです。

 
エリザベス1世 
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ブラッディー・メアリー
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クリストファー・コロンブス 
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ポトシ銀山
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石見銀山とブリオリズム
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スペイン国王 カルロス陛下
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イギリス東インド会社の当座制とはどういうものであるかといえば、当時の航海はリスクが高く、無事に帰ってこれるかどうか分からなかった為、リスク分散のために、共同出資を行い、出資者たちはその船長に金を与えて、船と武器を整えさせて帰りを待ち、スペイン船を襲って無事に帰ってくることができたら、その利益を山分け、船が沈むとその損失もみんなで痛みを分かち合うという、一回きりの博打のようなものであり、いかにも海賊的な仕組みです。

オランダ東インド会社の株式会社制度では、一回こっきりの襲撃ではなく、相手国との貿易を主においているため、もっと恒常的に資金が安定して供給される必要があり、株式会社という発想が出てきたわけです。

よく商売上手に、アラブ商人や中国商人があげられますが、これは契約をしても平気で約束を破ったり、いかに相手を騙すかという事が大事であるというビジネススタイルに対し、オランダでの株式会社制度では大量の資金を集めることができる事を活かし、設備投資・人的投資・リターンを考えたビジネスシミュレーションが重要となり、大がかりに人・物・金を動かす分、顧客に対しても業者に対しても、相手を騙すのではうまくいかず、ビジネスの信用が重要となり、姑息なだましよりも、ビジネスモデルの構築と相手との信頼が重要なビジネススタイルとなり、このほうが巨額な利益をとれるようになってゆくのです。 

この近代ビジネススタイルの構築により、ヨーロッパ諸国は巨大な利益を得て、その利益で軍事体制を整える事ができ、ビジネスと軍事の両面から、アラブ諸国や中国は彼らに支配されてゆく事になります。  何故、日本がやられずにすんだかといえば、石見銀山から産出される銀で、世界でトップクラスの資産 (当時の国家の豊かさは貴金属の量:ブリオリズムで評価され、日本の銀の産出・保有量はスペインに匹敵していた)を持っていた事と、織田信長の先見性により、種子島に漂着しポルトガル人が持っていた火縄銃の製法を学び、滋賀県の長浜で銃の大量生産を行い、数年で世界トップクラスの銃を保有するようになったからです。 当時の銃砲保有量のNo.1は世界最強のオスマントルコ帝国で、日本はそれに続き、ヨーロッパ諸国よりも軍事大国であったのです。


石見銀山とブリオリズム
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腐れの徳川家康が何故鎖国(正確にいえば長崎を通しての徳川独占貿易)をしたかといえば、ヨーロッパから入って来る鉄砲と火薬を地方大名が持ち始めると、自分の身が危なくなるからで、彼の発想は日本を強くしようというものではなく、内部の足を引っ張り、保身ばかり考えていたのです。 それ故、世界の軍事史でも極めて珍しい現象が日本で起こりました。  鉄砲を捨てて、刀に戻るのです。 そうして、徳川時代に日本は弱体化し、国民性・文化にしても、上(徳川)から睨まれたら終わり、すなわちわざとに自分を卑屈にみせるような態度を取る必要があり、非合理的で相手に対し卑屈な印象を与えるようなカッコ悪く振舞う、国民性や文化が花開くようになりました。  江戸時代に形成された日本人の性格は、本来の日本人の性質とは大きく異なるものであると私は思います。

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