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2009/4/28

ローマ帝国の物語-15 第七代王 タルクィニウス・スペルブス  ローマ帝国の物語
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王政ローマ 第七代王 
ルキウス・タルクィニウス・スペルブス(Lucius Tarquinius Superbus:BC535-BC510)


義理の父である、第六代王 セルヴィス・トゥリウスを暗殺して、王位に就いたタルクィニウス・スペルブス王は、先王セルヴィスの葬儀を禁じ、先王派と見られていた元老院議員たちを殺しました。 

武装していた護衛に囲まれていないと外にも出なかった彼は、市民集会での選出も元老院での承認もなく王位に就き、市民集会に賛否を問うこともせず、市民たちは陰で、「尊大なタルクィニウス」と彼のことを呼びました。




国内に不安を持つ支配者は、いつも対外関係を確かなものにしようと考えます。 タルクィニウスは、その相手を第一には近隣のラテン族に、第二にはエトルリアの諸都市に求めました。

百年も前の四代目の王アンクスの時代から、ローマは近隣のラテン人との間に同盟を結んでいましたが、同じ言葉を話し、同じ神々を敬う同士であったから、関係を深めるには自然であり、容易であったからです。

この「ラテン同盟」は、祝祭日をともに祝う事からはじまり、そのうちしばしば戦闘も共同して行うようになっていました。 しかしながら、ローマの力が強くなるにつけ、力関係も変化します。

戦利品の分配は平等でしたが、タルクィニウスはエトルリアを引き込んで、ラテン同盟を更新しました。

紀元前6世紀後半、ローマの中でのエトルリア人の勢力は、以前と比べようもないほどに強くなっており、五代目の王にはじまり、六代目、七代目と、ローマでは3人ものエトルリア系の王が続いていました。

しかしながら、ローマの中でのエトルリア人の勢力は強くても、ローマの外でのエトルリア勢はこの時期を境に、衰退し始めていました。  急速に発展した民族は、衰退も急速で、一時はナポリ近くまで勢力を広げていたエトルリア人も、百年も経たないうちに後退期にさしかかっていました。

そんな時、スキャンダルが起きます。

王の息子の一人、セクトゥスが、親類の妻ルクレツィアに横恋慕し、寝室に忍び込んで彼女をわがものにしてしまいました。  ルクレツィアは親類・友人とともにかけつけた夫の前ですべてを告白し、男たちが復讐を誓うのを見届けると短剣で自らの命を絶ちました。  


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ルクレツィアの遺体はローマに運ばれ、フォロ・ロマーノの演説台の上に安置されましたが、人々はその無残さに、王とその一族の野蛮と傲慢を口々に非難しました。 ブルータスは市民の前で演説を行い、貞節で行い正しい女性たちを二度とこのような蛮行の犠牲にしてはいけないと言い、王タルクィニウスが先王セルヴィスを殺して王位を奪った者であることを、人々に思い起こさせ、そして王とその一族をローマから追放することを市民に提案しました。

それまでくすぶっていた、ローマ人のタルクィニウスへの不満は爆発し、ブルータスの提案に大歓声で賛意を示した民衆は、ブルータスの市民結集の呼びかけに応じました。

その頃、アルディアの戦場に居たタルクィニウスも変革を知らされており、王はローマに向かいましたが、ローマの城門は固く閉ざされ、追放に決定したと告げられただけでありました。

タルクィニウスは、自分に従う兵だけを連れ、エトルリアの一都市カエレを頼って去ってゆきました。 王妃のトゥーリアは、既にローマを逃げ出し無事でしたが、3人の息子のうち2人は亡命した父と行動を共にしました。 3人目の息子で、ことの発端となったセクトゥスは別の町に逃げましたが、以前に侮辱したことのある者によって殺されました。

「尊大なタルクィニウス」の治世は25年にして終わり、七代目の王であった彼と共に、ローマの王政も終わりを告げました。 ロムルスが建国した、紀元前753年から数えて、244年目の、紀元前509年の事でありました。

これ以後、ローマは共和制時代に入り、市民集会で選ばれたにしても、任期は1年と短い、2人の執政官が統治する時代を迎えることになります。








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