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2009/6/19

ローマ帝国の物語-43 アントニウスとクレオパトラ-3  ローマ帝国の物語
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クレオパトラと息子のカエサリオン(プトレマイオス16世)の壁画
エジプト ハトホル神殿


アクティウムの海戦では、優勢であったクレオパトラ・アントニウス軍でありますが、クレオパトラの気まぐれで、クレオパトラ率いるエジプト艦隊が戦線離脱しますが、決して逃げたのではなく、彼女はエジプトまで退却して戦うつもりで、作戦会議での決定を実行したに過ぎませんでした。  しかしながら、クレオパトラにぞっこんのアントニウスはそれを勘違いし、彼女の船を追いかけ戦場を去り、残されたアントニウス軍は総崩れとなり、300隻以上もの軍船がローマ側に捕獲されました。 オクタヴィアヌスは乗員の生命は助けたましたが、エジプト船と明らかな船は、戦利品として船首を切り離した後で、炎上させました。

パトラスにいたアントニウスの陸上軍は、それでも8日間、司令官を待ちましたが、アントニウスから何も連絡はなく、兵士たちはついに9日目、助命を約束したオクタヴィアヌスに降伏しました。
  


51歳になるアントニウスは、クレオパトラにいれこみ、将軍として取り返しのつかない愚かな行動をとってきた自分に目覚め、もはや何もする気力がなくなり、海辺の家にひきこもり、一日中海を眺めていました。

クレオパトラは彼に手紙を書き、アレクサンドリアに来るよう懇願しますが、彼女にまだ惚れているアントニウスは断る事は出来ませんでした。  王宮で再開したアントニウスにクレオパトラは励まし再起させようとしますが、アントニウスの気力は戻らず、アントニウスへの個人的好意で従っていた兵士たちまでが離反しオクタヴィアヌスの許に連日のように寝返っていました。

一方のオクタヴィアヌスは、アクティウムの海戦後もローマには戻らず、アグリッパと共に、ギリシア、小アジア、シリアと、ゆっくりとした追撃行を続け、アントニウスの放任統治で乱れてしまった各属州の統治機構を整備していたのです。 そしてアントニウスの勢力範囲であったローマ世界の東半分がオクタヴィアヌスのものになり、諸王侯の誰一人といえど、アントニウスとクレオパトラに味方する者はいなくなっていました。

オクタヴィアヌス軍がローマに接近すると知るや、アントニウスは最後まで残った騎兵隊を率いて出陣し、7月31日、オクタヴィアヌスが先行させていた騎兵隊と戦闘が行われ、一時はアントニウス軍が優勢でありましたが、騎兵隊たちがこぞってローマ側に寝返えり、形勢は一気に逆転します。

こんなときに、クレオパトラが死んだという知らせを聞かされたアントニウスは、生きる気力を失い、剣を自分に突き刺し自殺を図りました。  多量の出血で弱りきっていたアントニウスは、まだ数人は残っていた部下に向かい、女王の許に運んでくれるよう頼み、血にまみれ顔面蒼白なアントニウスをクレオパトラは涙を流しながら胸に抱き、アントニウスは彼が常に望んでいたように、クレオパトラの腕のなかで息を引き取りました。

ここに将軍としての名声も地に落ち、惨めな姿をこの世にさらけ出さねばならなかったアントニウスですが、クレオパトラへの愛を貫き通した男として、後世での評価は高まりました。 いや、他人の評価など関係なく、アントニウスは愛と信念を貫き通し、彼にとって、幸せな最期であったに違いありません。 
                             紀元前30年8月1日、アントニウス 享年53歳


アントニウスが死んだ8月1日、オクタヴィアヌスはクレオパトラのいるアレクサンドリアに入城、エジプトの首都で、オクタヴィアヌスに反抗するものは誰一人いませんでした。  オクタヴィアヌスは、クレオパトラを生きたまま連行するよう命じますが、クレオパトラは反抗、彼女が反抗している間にオクタヴィアヌスの部下が内部への侵入に成功し、兵士たちによってクレオパトラは外に連れ出されました。

王宮に連れてこられて、クレオパトラは、はじめてオクタヴィアヌスが彼女の子供たちにどのような運命を与えようとしているのかを知ります。

17歳になったカエサリオンはオクタヴィアヌスの命により殺害され、10歳のアレクサンドロス・ヘリオスとクレオパトラ・セレネスの男女の双生児はローマに送られ、アントニウスの妻であったオクタヴィアに託される事になりました。 6歳のプトレマイオス・フィラデルフォスも兄や妹と共にローマで養育され、せめて息子の一人には王位を継がせたいというクレオパトラの努力も水の泡と帰しました。

王宮内で39歳の女王と、33歳の若きオクタヴィアヌスは話し合いを持ちますが、彼女はカエサルやアントニウスの時と同じような色仕掛けは用いませんでした。 整った美貌の顔立ちのオクタヴィアヌスの冷たい視線が、この種の戦術が通用する相手ではないとクレオパトラは悟ったのです。 不可能であるとわかりきっている事を試みるのは、一流の勝負師のする事ではありません。

ローマに護送され、オクタヴィアヌスの凱旋式で最高の見世物となるのだけはプライドが許さないクレオパトラは自殺を決意します。 一人の女として生きのびるよりも、女王として死ぬ事を決意したのです。


クレオパトラはオクタヴィアヌスに、アントニウスが眠る墓に酒を注ぎたいからと霊廟に行く許しを乞い、オクタヴィアヌスは許可し、見張りの一隊はクレオパトラを霊廟まで護送し、オクタヴィアヌスの命令どおり、内部に入った女王と女奴隷2人を外で待ちました。

そして毒蛇が、時代に運命を振り回された女王の一生に終わりを告げさせました。 クレオパトラは女王の正装姿で死んでいたと伝えられています。

                           紀元前30年8月2日、 クレオパトラ 享年39歳 



クレオパトラは、最後の手紙をオクタヴィアヌスに残し、それにはアントニウスと共に葬って欲しいと記されており、若き勝利者はこの願いを聞き入れました。

ギリシア人であるアレクサンダー大王がペルシャに勝ち、エジプト支配を始めたのが紀元前333年からで、紀元前306年から紀元前30年まで、約300年続いたギリシア系のプトレマイオス王朝は、最後の女王クレオパトラで幕を閉じる事となります。








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