2009/7/30
ローマ帝国の物語-73 ポンペイ最後の日 ローマ帝国の物語

■ The last Day of Pompeii (1827-1833)
Karl Briullov(1799-1852)
465.5x651cm │ The State Russian Mueseum │ Saint Petersburg │
ナポリの南東およそ20キロのところにポンペイという町があり、土地が肥沃で、交通の要でもあったため、紀元前8世紀頃からギリシア人が移り住み、町は飛躍的発展を遂げました。 ポエニ戦争ではカルタゴ側についたものの、ポンペイはローマの支配下に入り、ローマ市民権を得る事を条件に、ポンペイはローマの属州となりました。
ローマ帝国の物語-30 ポエニ戦争まとめ
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属州となったポンペイではラテン語が使われ、イシス神殿をはじめとした大規模な神殿や劇場、選挙投票所、5つの巨大浴場などが次々と建設され、ローマと同じく水道や道路などが整備され、2万人以上の人たちが暮らす都市に発展してゆきます。
しかしながら、時はネロ皇帝(紀元68年自殺)の治世下で、彼が実の母親を殺害(紀元59年)、妻殺害(紀元62年)、ローマに大火を放った(紀元64年)のと同じ頃、紀元63年ポンペイの町を大地震が襲い、町は大きな被害受けました。
ローマ帝国の物語-67 皇帝ネロ
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しかしながら、風光明媚なポンペイの人気は衰える事がなく、パトリキたちの別荘があちこちに建てられ、瞬く間に復興を遂げます。
自身の爪痕が完全に消え、人々が真夏の太陽を楽しんでいた紀元79年8月24日、ヴェスヴィオ山が大爆発し、ポンペイの町は一瞬にして火山灰と溶岩に埋もれ、住民の1/10にあたる約2000人が亡くなり、
当時のローマ皇帝ティトゥスは、噴火直後に使者を向かわせましたが、ポンペイの町は既に跡形もなく周辺には被災者があふれかえっていました。
それ以降、ポンペイの町は再建されることもなく人々の記憶から忘れ去られていましたが、1748年に偶然に発見され、現在では当時の町の約80%が発掘されています。
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