renaissancejapn@aol.com

2006/1/19

東アジアとヨーロッパ-6  国際政治・金融・企業

鉄砲伝来(1543年)から6年後に、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しました。

当時のヨーロッパは、ルターやカルヴァンのプロテスタントの宗教改革の嵐が吹き荒れ、長い歴史に安住し、組織疲労からくる腐敗や権威が失墜していたカトリックのローマ教皇庁内部からも改革と再建の運動が起こっていた時代でした。

イエズス会は、イグナチオ・デ・ロヨラを中心にして7人の同志が、パリのモンマルトルの丘のディオニソス聖堂で貞潔、清貧、エルサレムへの巡礼もしくは世界への宣教という3つの誓願を立て(モンマルトルの誓い)、1534年にカトリックの修道・布教団体として結成されたものです。

ポルトガル国王ジョアン3世は、この新進気鋭の修道団体にみなぎる士気と行動力に注目し、イエズス会の創設に携わったフランシスコ・ザビエルをアジアに派遣します。 イエズス会は、創設当初から世界布教への熱意に燃えており、宣教師たちは、国家の利益を理解したうえで、イエスキリストの福音を胸に固い決心を自らに誓い、世界伝道の途に上がったイエズス会士達の胸中には、迷いはありませんでした。 

十字架に架けられたイエスが復活し、11人の弟子達に告げた言葉、

「全世界に行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」−マルコによる福音書16章−

「私は天と地の一切の権能を授かっている。 よって、あなた方は行って、全ての民を私の弟子にするのです。」 −マタイによる福音書26章−


ポルトガルのリスボンを発ち、約1年の歳月をかけインドのゴアに到着し、アジアで宣教活動を始めますが、彼の情熱に対して現実は厳しい物でした。 現地住民の知的水準からくる教義への無理解に悩む日々が続いていたのでした。 そんな年月が続くなか、1547年に、マレー半島西岸のマラッカで、初めて一人の日本人と出会いました。 ザビエルは、それまでリスボンを離れて出会った非キリスト教徒の民の中で、この日本人だけが理性を備えた人物であったと記しています。 

この薩摩藩士、池端弥次郎を案内役とし、ザビエルは1549年8月に鹿児島に上陸、キリスト教をはじめて日本に伝えました。
 
そこで日本人達を知ってゆく中で、彼の期待は裏切られる事はなく、イエズス会への報告書や、友人への手紙の中に、何度も「日本人は理性に従う」といった表現が使われました。 

また、ポルトガルやスペインの宣教師達を驚かせたのは、日本の教育水準の高さで、一般庶民の大部分が文字を読み、書く事ができるという事は、当時のヨーロッパでは考えられない事でありました。

理性と知性を持ち、読み書きができる日本人は唯一、ヨーロッパ文明とキリスト教の教義を理解できる民族であるとし、しっかりとした教義書を日本語でつくるのが効果的であるという着想により、イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが計画した天正遣欧少年使節が、グーテンベルグ式の活字印刷機を持ち帰り、西洋文学や自然科学、またキリスト教の教義などが、この印刷機で本にされました。

なかでも、日本人を惹きつけ歓迎されたのは、ヨーロッパの進んだ自然科学や天文学の知識であったと記されています。
  
2


※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ