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2009/9/22

ローマ帝国の物語-96  帝国最後の皇帝  ローマ帝国の物語
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ローマ皇帝 ユスティニアヌス1世(在位527−565年)


東ローマ帝国が滅亡するのは、1453年オスマン帝国により、コンスタンティノポリスが陥落された時なので、ユスティニアヌスが本当の意味での最後の肯定ではありませんが、一時的とはいえ、往年のローマ帝国の版図を回復し、その後の東ローマ帝国が持ち続けた「ローマ帝国」と言うイデオロギーをもてる根拠となり、帝国を精神的に支えたからであります。



ユスティニアヌスは、483年バルカン半島のダルダニア州(現在のマケドニア近傍)に貧農の子として生まれましたが、軍人だった叔父ユスティヌスによって首都コンスタンティノポリスへ呼ばれ、その養子となってユスティニアヌスと改名し、高等教育を受け、叔父ユスティニアヌスの後を継いで、45歳で東ローマ帝国の皇帝に即位し、それから38年7ケ月にわたり、ローマを統治しました。

ユスティニアヌスは優柔不断なところがありましたが、彼を支えたのは元娼婦であった妻テオドラに支えられました。

532年1月に、増税などに不満を持つ首都市民が「ニカの暴動」を起こし、この暴動によってコンスタンティノポリスは焦土と化し、多くの教会を含む美しい建築物はことごとく破壊され、途方もない量の財宝や美術品が奪われました。 

裕福な市民たちは、次々と逃げ出し、ユスティニアヌスも逃げ出そうとしましたが、引き止めたのは妃のテオドラでありました。

「私は逃げません。 一度皇帝になったものが逃げれば死んだも同然で、どうしても逃げたいのなら、あなた一人で逃げてください。 しかし、あなたを待っているのは惨めな放浪者としてのたれ死にする運命です。」

というテオドラの言葉に奮起し、ユスティニアヌスは、東方に派遣していた将軍ペリサリウスを呼び出し、3万人の市民を虐殺した末に、なんとかこの乱を治めることができました。



こうして、なんとか足元を固めたユスティニアヌスは、その翌年から、周囲の国々を征服し始め、まずはアフリカの旧カルタゴのヴァンダル王国を滅ぼし、西ゴート王国からはイスパニア南部の領土の一部を奪還し、そして20年という長い戦いの末、ついにローマを含むイタリア半島から蛮族を追い出し、西ローマ帝国の故地を再征服することになります。 ユスティアヌスが、「ローマ帝国最後の皇帝」と称されるのは、このためであります。


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ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青色部分)。青色と緑色部分はトラヤヌス時代のローマ帝国。赤線は東西ローマの分割線。


しかしながら、一方では相次ぐ戦争や建設事業は国力の衰退を招き、結局ユスティニアヌスの治世は、古代ローマの復興を求めた彼の意向とは裏腹に、古代ローマ帝国の寿命を縮めるという、皮肉な結果になってしまいました。


晩年のユスティニアヌスは軍を軽視したため、軍は弱体化し、侵入する異民族に対しては金で紛争を解決しようとしたため、国家財政も破綻してしまいました。  ユスティニアヌスの死後、北方からの異民族の侵入やサーサーン朝の攻撃を受け、帝国は急速に衰退し始め、8世紀半ばまで外敵の侵入と国内の混乱が続く事になります。


貧農の子から皇帝まで登り詰め、西ローマ帝国の故地を再征服し。古代ローマ法を集大成した「ローマ法大全」の編纂やアア・ソフィア大聖堂を再建を果たし、その功績から後世の東ローマ帝国においてユスティニアヌスはコンスタンティヌス1世と並ぶ偉大な存在とされ、大帝と呼ばれました。








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