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2009/10/19

マキアヴェリ  -11  解雇されたマキアヴェリ  マキアヴェリ 

マキアヴェリの分析によれば、チェーザレの野望が潰(つい)えたのは、父の教皇アレクサンデルの急死と、新教皇選出時の対応のまずさが原因としています。


チェーザレが油断している間に、新教皇ユリウス2世は、さっそくチェーザレの追い落としにかかり、1506年に教皇はボローニャを取り戻し、みずから教皇領の版図の回復に乗り出します。

チェーザレは捕らえられ、スペインに送り返され、、この頃からユリウスは、ヴェネツィアの内部への進出を抑えにかかりました。

アドリア海の女王ベネツィア、この共和国は15世紀の中頃、地中海貿易がオスマントルコに脅かされると、内陸部に領土的野心を燃やします。

1508年、ユリウスはドイツ・フランス・スペインの列強とカンブレー同盟を結びヴェネツィアを叩き、他方フランスが中部イタリアに勢力拡大をはかると、1510年スペインや昨日の敵ヴェネツィアと神聖同盟を結成し、フランスを阻止しました。

このとき、ユリウスの神聖同盟の呼びかけに、ソデリーニ政権は伝統的な中立政策を守りますが、決断を先送りした中立政策は、やがて共和国の命取りとなり、フランス軍はラヴェンナの一戦で同盟軍を破ったものの、勇将ガストン・ド・フォアを失い、旗色が急に悪くなります。

そこで、フランス軍が本国に退くと、今度は勝ち誇ったスペイン軍がフィレンツェの隣町プラートに攻め寄せ、祖国はまたしても窮地に陥ります。

親メディチの内乱が起き、ソデリーニはとりあえず落ちのび、後に残ったマキアヴェリはメディチ家にかすかな望みをつなぎますが、数週間後に解雇されてしまいました。

後任には、メディチ家の秘書ニッコロ・ミケロッツィが収まり、お決まりの政変劇にともなう官僚の人事異動でありました。

  





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