ブログさぼり期間更新!
書き残したいことを、ただ書こうと思います。
2年ほど癌で闘病していた母が、2015年4月30日の朝、亡くなりました。
医者のいう余命は年末まで? 3月までどうだろうか? と、いつどうなるか、、という毎日でしたので、
すごく頑張ってくれました。
私も出来る限りの事をしてあげようと、母の要求とあらば全て叶えてあげようと、いろいろしました。
ずっと食べることが出来なかったのに3月に入り、急に食欲が出て来て、
私の作ったフレンチトーストが食べたいと言われれば作って持って行き、今日はお好み焼き!と言われれば買いに走り、おいしいメンチカツ!の指令が出れば肉屋に走り、どん兵の汁だけ飲みたいというので、麺だけ私が食べたり、、(笑)体には良くないかもけど、最後に、最後にと言われると、、、ね。
ウチの母を知る人はご存知かと思いますが、あの母ですから。
娘が産まれて2年は私の実家に一緒に住んでたので、私も子育てと仕事の両立が出来てました。
バンドのツアー勢も沢山が泊まったし、皆と友達になりたがる母でしたので、よくちょっかいかけに皆が泊まる部屋に遊びに来てましたっけ。。。
ある時はウクレレ片手に持ってきたり、自分のハワイアンの楽譜の英語を訳して〜と持って来たり、
庭で破れたズボンを縫ってる人あれば、手伝ってあげたり、
土産にと、畑の大根を引っこ抜いて渡してみたり。もーやめて〜〜〜って私が言って喧嘩になったりもしましたが、
好きにさせてあげたら良かったなー、とか、ライブ誘ってみたら良かったなーとか、
まだ一緒に暮らしてあげてたら良かったのかな?いや喧嘩ばかりしてたから、ストレスになってたのかな?とか、
もっと再発する前に、体にいい食べ物を食べさせてたら、、とか、もっと早い時期から時間作って行ってあげたら良かったな、、とかとか、思いだしたらキリがありません。。。そんなもんだよな。
そんな母でしたので、私の友達も何人か葬儀に来てくれました。ありがとうございました!
最後の2週間は朝から昼までと、毎晩娘を寝かせた後に病院へ行き、母の病室に泊まってました。
さみしい、さみしい〜と子供のようになった母を一人にはできませんでした。
私は癌に関する本やスピリチュアルな本、死に関する本を何冊か読んでみたり、癌の症状から点滴の薬の内容から何なら何までネットで色々検索の日々でした。
でもこれは私にとってとても大事なこととなりました。
看護士もしていた母なので、自分の状態をよく理解しており、抗がん剤なども2回やってはみたけど、やはり化学治療は止め、痛みの緩和だけの治療にしました。私達が困らないようにと、終活準備も完璧でした。父の分までも(笑)
とはいえ、この2年いろーーんな事があったわけです。
私自身も私であって、私じゃない、人格まで変わってしまったかのような日々を過ごしてきました。
忙しいなんて言ってられない。時間は過ぎて行くのです。
3月に入り意識朦朧としてきた母でしたが、亡くなる2日程前に、急に元気だった頃の母に戻り、色々話せたので私も救われました。早く楽になるとええな〜。と母と話せるところまで。
母ももうすぐ訪れる最期を悟っていて、今日はいい気分やで このまま明日の3月29日に逝けたらええなー。なんて言ってました。
そしてまさか!でしたがその3月29日にいつものように深夜病院に到着するといつもとあきらかに様子が違う。
まず手がとても冷たい。午前2時位から唸り声をあげ始めたので、痛み止めのモルヒネを投与してもらい、落ち着いたと思ったら、4時すぎから下顎呼吸という最期にするという呼吸になってきたのです。
(予め調べてあったのでここで心の準備はできました。)
朝早くに父を呼び、6時に父が病室に到着すると、私は一旦帰宅し、娘を学校へ行かせて旦那と葬儀やお泊まりの荷物を準備して病院に到着したのが9時すぎ。
私の到着を待っていてくれた母、酸素マスクの中で何かを言うと目を閉じ、しばらくして息を引き取りました。
え?うそ??なんで!あまりに早かったので、しばらく信じられませんでした。
父が葬儀屋に電話してるとき、これで良かったんだと、色々教えてくれてありがとう、とまだ少し温かい母を抱きしめました。
家に連れて帰る前に体をキレイにしますので、一度部屋を出てくださいとのことで、待つこと30分。
病室に戻ると、キレイにお化粧された元気な時の笑みを浮かべ眠ってるような母がベットにいました。
母の眉間に出来てたシワも薄くなってました。
それを見て私は母は楽になれたんだなー。自由になれたんだなーと。
死んでも悲しまんといて、と母が言っていたので、よし、楽になれた事を喜んで見送ってあげようと決心したのです。
肉体はダメになってしまったけど、母の魂は存在し、この世にはいなくなってしまっただけだから、、、。なんてスピリチュアルな方向に思考を向けてました。
葬儀は父の意向で実家ですると決めていました。母が知ったら、そんなんケイコ(私)が大変!斎場でやってくれ!と怒ってまた喧嘩になるので内緒にしていました。私も田舎の家での葬儀、大変そうだから反対でした、、、。
父の中では、ずっと入院してたから家に帰してあげたかったそうです(最初からそう言えば良かったのに、、言えない年代の人です)
でも結果、家でやって良かったです。納棺師の方の仕事を隣で見させてもらい、私も体を拭いてあげました。
ハワイアンのバンドをしていたりウクレレの講師もしていた母自身が用意してあった、ハワイアンの真っ白なドレスに着替えさせ、ハイビスカスのレイを頭に巻いて、化粧をし、マニキュアまで塗ってもらった美しい母と2晩、一緒に過ごした。(魂はもうコッチにないのかも知れないけどね)
祭壇もとびきり鮮やかな花で埋め尽くしてもらいました。遺影の写真も眩しいほどの艶やかなハワイアンの衣装を着た写真です。(これも母自身が用意しておいてくれました。)
少ない親戚や近所のオバさん達と話したり、父、夫、娘、私の少ない家族で力を合わせて母を送ってあげることが出来たのです。
葬儀から1週間後、先週父が体調を崩し入院。。。数えきれないほど通った、母が入院していた病院にまた通う日々です。
父も身体障害1級の病気があるのですが、今回は長い入院になならないと思いますが、退院してから一人になった父が心配であります。
これは私たち皆が抱える心配事でありますが、私達が赤ちゃんのときからお世話してもらった恩返しとして、親のお世話をするのは自然な事だと思うのです。
強面で態度やセンスが極道風なもんですから、空港では別室に連れられてた父ですが、可愛くなったもんです。
昨日はシャンプーしてあげたのですが、もっと強くゴシゴシ洗ってくれと言われても、つるつるぴっかんをどう洗えば良いのか、、、泡を立てる毛が多少ありましたので、遠慮なく指の腹を使いゴシゴシしてあげました、、、。
30代から定年するまでアレを被ってた人です、頭皮に対するプライドが高いので頭を洗わせるのは、私か床屋くらいでしょう。。。
まだお父様、お母様がご健在の方、少しでもどうぞ優しくしてあげて下さいね。
私も親となった今、母の闘病中に色々なことを母から学びました。
完璧に準備し最期を迎えた母、尊敬します。ほんと凄い人やわ!
母は何度ももう好きな事いっぱいやったから思い残す事は無いと言ってました。
私も母のように逝けたらええな、と憧れすら覚えました。残り30年か〜。
私は元気にやってますので、ご心配なく。
この2週間、瞼がやたら痙攣してますが(笑)
今もこの記事を書いてる2時間ずっとSCREAMING LORD SUTCH聴いてますし。
私には私の生活、人生がありますので、いつまでも泣いてたり、故人を惜しんだりしててはいけません。
あの母の娘ですので。
残り30年か〜〜。

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