広島大学助教授でル・コルビュジェ研究をされている千代章一郎氏をゲストに招き、広島ピースセンターを題材に議論する。
丹下は戦時下にデビューした当時から、コルビュジェに代表されるモダニズムを如何にして乗り越え、日本独自のものを取り入れるかに腐心し、「日本的なるもの」を模索する。その渾身の作が広島ピースセンターであり、モダニズムと日本の伝統が統合した最初の作品であるとも言われる。果たしてそうだろうか?そうだとしたら、一体どこが?丹下の考える日本とは?
まず最初にピースセンターの概要について簡単に紹介すると、下の模型写真が当初のコンペ案だが、当時実際に丹下の設計により建設されたのは、中央の陳列館と東側の本館とアーチ下の慰霊碑である。西側の公会堂はわけあって丹下の手を離れる。経済的理由により、当時は渡り廊下も設置されず、大アーチは取止めになる。また、外壁や床の石張りも経済的理由により取止めとなり、RC打放しのままとなる。現在のピースセンターは丹下事務所により、西側公会堂は1989年に建替え(国際会議場)、中央の陳列館は1991年に外壁の石張り改修(資料館西館)、東側本館は1994年に建替えられ(資料館東館)、その際に渡り廊下がようやく設置される。そう考えると、当初のコンペ案に最も近づくのは約10年前(建設より約40年後)の1994年だと言えるが、逆に言うと、当時のまま残されているのは中央の陳列館(資料館西館)だけということになる。
そういう事情を考慮しつつ、記念公園全体の計画を「戦争」「モダニズム」「日本」などを意識しながら見ていく。
(2005/01/14)
コンペ案模型写真/1949:クリックで拡大
航空写真/1961:クリックで拡大
南側全景/2002:クリックで拡大
最も印象的なのは、原爆ドーム(30)に向かう強烈な軸線。まさに広島のその後の都市計画に影響するほどのインパクトを持ち、現地を訪れた万人が強制的に意識させられる。さて、その軸線が目指す原爆ドーム、これがもとはどういう建物であったかご存知だろうか?被爆前は「広島県産業奨励館」といい、広島の特産品などを展示したり、色々な催し物が開かれていた。チェコの建築家ヤン・レツルの設計により1915年(大正4年)に開館する。このそれほど有名ではなかった建物は、1945年の原子爆弾により「原爆ドーム」として世界的に有名になり、1996年(平成8年)には世界遺産にまで登録される。これはまさに、戦争(アメリカ・原子爆弾)により1945年に完成?した建物。破壊により創造された建物(廃墟)と言える。
この原爆ドームだが、残すか否かの議論はあったらしいが、結局は残される。ところで、原爆ドームの位置は爆心地(33)から北西へ160m離れており、また爆撃機が狙ったのは原爆ドームからさらに北西にある相生橋(5)。つまり計画地(原爆投下目標地)である橋でも実施地(原爆投下地)である爆心地でもない位置に原爆ドームはある。被爆後に僅かに残された建物の中から、爆心地に近く、形として残っていたものが偶然(或は必然と言えるかもしれないが)選ばれたのだと思われる(現在観光案内所になっているレストハウス(14)もかろうじて残る)。そして丹下のピースセンターは明らかにこの偶然の原爆ドームのために計画された。まさに原爆ドームを祀るための計画だと言える。果たしてこの偶然残った戦争の遺構をこれほど意識的に祀る必要があるのだろうか?ピースセンターコンペの2等・3等案はこれほど原爆ドームを意識しているわけではない。戦争遺構として残すが、そっとしておこうといった感じだろうか?あるいは敷地外なのであまり意識していなかったのだろうか?丹下はその敷地外の戦争遺構を、川を挟んでまで強制的に祀り上げる。敷地内のみならず、より広い視野で都市計画を意識した点では非常に優れているが、偶然の廃墟を祀るための建設という感じで、抵抗を感じてしまう。もしかすると、それこそが日本的なのだろうか?
ここで疑問なのが、例えば原爆ドームではなく、レストハウスが遺構として選ばれていたとして、やはりレストハウスに向かう軸線を設定したのだろうか?仮に軸線を前提とすると、軸線の先にはどういう可能性があるだろうか?爆心地に植えられた1本の大木?あるいは原爆投下目標地の橋?
平和記念公園地図:
http://page.freett.com/archireview/index2.html
似たような例としてグラウンド・ゼロが挙げられると思う。両者を比較することにより、戦争・日本を考えるヒントが見えてくるかもしれない。
(2005/01/14)
原爆ドームを目指す軸線
軸線といえば、丹下のデビュー作である「大東亜コンペ案」(1942)に既にはっきりと見られる。真珠湾攻撃成功で国中が酔いしれ、大東亜共栄圏をつくろうと意気込んでいた時に開催されたコンペであり、その内容は、大東亜共栄圏のどこかに「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スルニ足ル記念営造計画案ヲ求ム」というもので、敷地・予算などの制約は全くないものであった。丹下はここで、「日本民族の伝統と将来に確固たる自信を持つことから出発」し、(モダニズムを超え)新しい日本様式の確立を目指す。丹下の1等案は、東京(皇居)から富士に向かい「大東亜道路」と「大東亜鉄道」の2本の都市軸が走り、その都市軸上に東京寄りから、「大東亜政治経済中枢都市」「大東亜文化中枢」、富士の麓に「忠霊神域」を配置するものである。まさに「大東亜建設忠霊神域計画」:藤森照信氏によると、大東亜共栄圏建設の理想に燃え、天皇に忠を尽くし、アジア各地の戦場に散った戦士たちの霊魂を富士の麓に招き寄せ、神として祀る、そういう地域をつくろうという国土計画である。
(2005/01/15)
大東亜コンペ全体配置図:クリックで拡大
大東亜コンペ忠霊神域配置図:クリックで拡大
ここでピースセンターとの共通点が指摘できる。ピースセンターでは平和通りという都市軸に直行し、慰霊碑を通り原爆ドームを目指す軸線が設定されている。一方大東亜コンペでは東京(皇居)と富士を結ぶ都市軸とそれに直行する軸線(国民広場→本殿)が計画されている。両者とも都市軸とそれに直行する慰霊のための軸線が設定される。大きな違いはやはり、ピースセンターでは明らかに原爆ドームから軸線が決められており、その軸線上に慰霊碑が置かれている点である。原爆ドームを背後に借景とした慰霊?一方大東亜コンペでは慰霊のための軸と直行方向に意識的に富士を望む。戦争遺構:原爆ドームと日本の象徴的自然:富士、敗北のために亡くなった者と勝利する意志を持って亡くなった者という慰霊対象の違いを意識したのだろうか?慰霊の軸線を原爆ドームで終わらせることにより戦争の終焉、横から富士に望まれた慰霊の軸線(その先には何があるのだろうか)により戦争のさらなる進行を象徴しているようにも思う。
ピースセンターでは慰霊のための軸と原爆ドームを望む軸が一致するため、死者の霊を祀ることがすなわち原爆ドームを祀ることになってしまう。そこに個人的な違和感を感じるのかもしれない。この「祀る」という行為に日本的なるものが潜んでいるように思う。
ちなみに、平和公園内に丹下事務所設計の「国立広島原爆死没者追憶平和祈念館」(2002)(
http://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/index.php)がさりげなく佇んでいる。この施設は、ピースセンター建設時に占領軍(アメリカ)の影響により実現できなかった「慰霊」のための地下施設であると思うが、明らかにこの軸線を意識している。また、平和大通りを挟んだ向かい側の灯篭・病院までもが不自然なまでに軸線を意識しており、丹下の設定した軸線の力が敷地内のみならず敷地外までも、時代を超えて存続しているだけでなく、ますます強力になりつつあるのを感じる。
(2005/01/16)
平和大通反対側の病院まで:クリックで拡大
参考図書
「丹下健三」(丹下健三・藤森信照/2002/新建築社)
丹下健三の学生時代の設計課題や卒業設計に始まり、戦時下でのデビュー作となったコンペ案、海外での都市計画や東京新都庁舎など近年の作品に至るまでを幅広く紹介。藤森氏による丹下氏からの資料提供やインタビュー、その他かつて丹下事務所に在籍していた著名建築家からの当時の回想インタビューなど、今までに触れることのできなかった内容溢れるまさに丹下健三の集大成。特に広島ピースセンターや東京オリンピックプール、東京計画1960に関してはそれだけで1章使う充実振り。高額ではあるが丹下健三に関する最も充実した著作。
「丹下健三−一本の鉛筆から」(丹下健三/1997/日本図書センター)
丹下健三の自伝的著作。一般向けの書籍であるため、丹下作品の紹介というよりは丹下健三という人間を紹介する。世界の丹下の各地での稀有な経験談がふんだんに盛り込まれ、非常に読みやすい。コルビュジェのソビエトパレスに触発され建築を志し、ミケランジェロをコルビュジェと並び高く評価する丹下。「時代様式を持つことによってのみ、建築と環境はより人間的なもの、人間の心に訴えるものになると信じる」丹下の人間味溢れる著作。

2